坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 pp.97-98

 しかし反面ドイツの復興は、他国にはないハンディキャップを負っていた。経済的にはヨーロッパの経済活動の中心軸が、「地中海→アルプス越え」のルートから大西洋沿岸に移ってしまったこと。かつてヨーロッパ経済の中枢地域に属していたドイツは、前章で述べたように、ウェストファリア条約で海への出口も外国に制せられ、「大西洋世界の後背地」(ホルボーン)になってしまったのである。かつてヨーロッパの富を集積した地中海は「貧窮しよどんだ入江」(ホブズボーム)になる。そして、以前はドイツの海であったバルト海でも、スウェーデン、そしてロシアといった新興の強国の前にドイツの影はうすくなり、ハンザ同盟も17世紀末には姿を消してしまう。
 他方政治的に見ると、西欧諸国が17世紀後半以降、おおむね国内での戦火を免れて新たな発展に向かい得たのに対し、ドイツは国土の復興に専念する暇もなく外国からの侵攻に曝され続けたのであった。東からはオスマン帝国がハンガリーを制圧してさらにウィーンを脅かし(1683年の「ウィーン攻囲」)、西からはフランスが侵攻してライン川沿岸で徹底的な破壊作戦を展開した(1688-97年の「プファルツ継承戦争」とその間の「プファルツの焦土化」)。ドイツが大きな戦争から解放されたのは、東方では1699年のカルロヴィッツ講和条約で「トルコの危険」が去り、西ではスペイン継承戦争を終わらせた1714年のラシュタットの講和条約以後のことなのだ。ドイツの国力の本格的回復は18世紀に持ち越された。その回復・復興の課題を背負ったのが政治体制としての「絶対主義」と、その経済政策としての「重商主義」なのである。

ドイツ史10講 (岩波新書)

江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 p.74

 くり返すようだが、1515年の皇帝とハンガリー王によるウィーン会議で二重結婚が約された時には、ハプスブルク家にハンガリー王冠が転がりこむ可能性はほとんどなかったのである。その道が開けたのも、偶然の賜物というしかない。華燭の典からほぼ10年後の1526年、当年20歳の若くすずやかな目もとのハンガリー王ラヨシュは、国境を侵して侵攻してきたオスマントルコ軍を撃退するべく、勇姿を馬上に、南の戦場へと馳せた。しかし戦なれのしていない彼はモハッチの野で大敗を喫し、将来を嘱望されながらも、空しくあたら生命を失った。
 ラヨシュ王の妃はハプスブルク家の王女マリアであり、また彼女の兄フェルディナントは故王の妹アンナの夫でもあったから、ハンガリー王冠がハプスブルクに帰属するのは当然のことだった。また古来の慣例上、ボヘミア(ベーメン)王はハンガリー王が兼ねていたために、フェルディナントはまもなく両国の王位に即くこととなった。

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 pp.46-47

 ブルゴーニュ公国は、故シャルル公の妃がイギリス王家の出身であったこともあり、また英国が羊毛の輸出入国でもあったから、この国とは気心が知れた仲といってもよく、両国間には良好な関係が保たれていた。ところがフランスとは事あるごとに対立してきた。そしてこの両者の抗争は、そのままマクシミリアンに受けつがれた。約4世紀にわたるハプスブルク家対フランス王家(ヴァロワ朝・ブルボン朝)との壮絶な覇権争いは、これをもって濫觴とする。18世紀半ばにマリー・アントワネットがルイ16世に嫁するまで、延々400年近くの間、互いに相手を打倒しようと肝胆を砕く。

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 p.177

 19世紀に始まった工業化でもフランスはドイツに遅れをとった。フランスは、イギリスやドイツのような急テンポの産業革命を経験しなかったが、これは担い手となるべきプロテスタントを欠いたことがその一因であった(たとえばフランス人新教徒の技術者デニ・パパンは、亡命先のドイツで蒸気ピストンを考案した)。一方、統一後のドイツの経済発展はめざましかった。人口の都市集中とあいまって、ドイツの工業化はフランスよりも急激な勢いで進んだ。1875年ドイツでは、人口の六割は農村居住者であったが、早くもその8年後には都市生活者が農村を上回った。だが農業大国のフランスでは、都市人口が農村人口を超えたのは、ようやく1931年になってからのことであった。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 pp.38-39

 三十年戦争は、第二次世界大戦前ヨーロッパで最大規模の戦争ともいわれるが、ことに上ライン地方の惨禍は想像を絶した。多くの町村が何度も戦火によっては解され、人口は8割近く減少した。戦後1648年のウェストファリア条約で、リシュリューの目的はみごとに達成されることになる。フランスはドイツの分裂を決定的なものとし、ハプスブルク家に致命的な打撃を与えた。三百余りのドイツ諸邦(王国、公国、司教領、伯領、帝国都市など)は、それぞれ国家主権が与えられ、相互間または外国との同盟条約締結の自由が認められた。これにより、ハプスブルク家の下のドイツ帝国(神聖ローマ帝国)は、もはや形骸を維持するにすぎなくなった。
 一方この条約によって、ラインをめぐる政治地図は根本的に塗り変えられた。ライン上流地域のスイスと河口のオランダの独立が正式に承認された。さらにドイツは、ライン左岸へのフランスの領土拡大を許す結果となった。ロレーヌ(ロートリンゲン)のメッス(メッツ)、トゥール、ヴェルダンの三司教領をフランスは最終的に獲得し、ストラスブールをのぞくアルザス(エルザス)の主要部分がフランスに帰することになった。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 pp.23-24

 諸侯のなかでも、とりわけ聖界諸侯つまり大司教の権勢は絶大であった。そんな中で当時ライン河いったいは「お坊さん通り」と皮肉をこめて呼ばれるようになった。ドイツの大司教座のうち、マインツ、ケルン、トーリアと、三つがこの地域に集中し、ライン河と支流のモーゼルおよびマイン川沿いに広大な領地をもっていた。大司教座だけではなかった。コンスタンツ、バーゼル、シュトラスブルク、シュパイアー、ユトレヒトと、多くの司教座の領地が、上ラインから下ラインにいたる沿岸各地に散らばっていて、ライン河はあたかも「お坊さん通り」の観を呈していたのである。
 この地域に多くの司教座が設けられるにいたった経緯は、ローマ時代にさかのぼる。ラインラント、ことにライン左岸は、すでにローマ帝国の属州時代にキリスト教化が行われた地域である。フランク王国時代には、この地に司教座が設けられ、ここを拠点として東方へのキリスト教の布教が進められていった。
 11世紀にはラインの三大司教座の勢力は強大となっていた。ケルンの大司教座は、ミュンスター、ユトレヒト(現オランダの都市)、リエージュ(現ベルギーの都市)の各司教座を、トリーアはメッツ、トゥール(いずれも現フランス東部ロレーヌの都市)をその管轄下においていた。マインツ大司教座にいたっては、上ライン・中ラインの各司教座のほか、アウグスブルク、フランクフルト、バンベルクからさらに東方のボヘミアまで管轄していた。
 彼らは国政にも関わることになった。ザクセン朝初代のオットー大帝が、反抗的な諸部族を抑えるため、行政を聖職者に委ねるという方針をとったため、ラインラントの各大司教座は皇帝の保護の下、その権勢をさらに強めることになったのである。三大司教には帝国大尚書長官の地位が与えられ、マインツ大司教がドイツの行政にあたったほか、ケルンとトリーアの大司教は、それぞれ当時帝国支配下にあったイタリア王国とアレラート王国(今日の南フランス東部)の行政を担っていた。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書 p.82

 戦国時代は、中国史上最初の、高度成長の時代だった。人口は急増し、春秋時代の四倍にあたる二千万になった。この人口規模は、元禄時代の日本の人口や、今日の台湾に匹敵する。商業が発達し、都市が繁栄し、思想や文芸も活発化した。
 人口が四倍に急増した主因は、鉄器の普及である。鉄の原料は、銅鉱石よりもずっと豊富である。青銅器と違い、鉄器は大量生産が可能だった。農民は鉄製農具を使って農地を広げ、諸侯は鉄製武器で大規模な軍隊をつくった。軍隊は歩兵中心となり、戦争の規模は十倍化した。その結果、春秋時代まで存在した多数の都市国家は、少数の大国に吸収合併され、「領土国家」が生まれた。そして、「戦国の七雄」と呼ばれた七大強国が、天下統一を目指して、覇を競うようになった。

貝と羊の中国人 (新潮新書)

横山宏章『中華民国』中公新書 pp.5-7

 その多様な違いを単純化することは無謀であるが、あえて単純化した公式的解釈によれば、それは三つのグループに分けられる。
 (1) 洋務派(洋務運動)曾國藩、李鴻章らの清朝重鎮の改革派
 (2) 変法派(変法運動・立憲君主運動)康有爲、梁啓超らの戊戌維新派
 (3) 革命派(立憲共和運動)孫中山、黄興らの辛亥革命派
 単純化した分類なので、さらにその特徴を単純化して説明すれば、次のようにまとめることができよう。洋務派とは、世界を制覇していたイギリス海軍の圧倒的威力を見せつけられた清朝幕閣が、急速なる建て直しを迫られたなかから誕生した。直隷・両江総督を歴任した曾國藩や、その後を継いだ直隷総督・北洋大臣の李鴻章は軍事的経済的改革に乗り出した。近代的産業の導入と振興を図り、経済的充実による軍事的強化で西欧列強に対抗する「富国自彊(強)」策を展開した。それは総称して洋務運動と呼ばれた。現代的に表現すれば、まさに「改革・開放」路線であった。
 しかし現代中国の「改革・開放」政策も、経済的改革だけでは不十分であり、政治的にも共産党一党独裁体制を改革しなければならないという政治改革の主張が生まれているように、当時の中国にあっても、同じように洋務派的経済改革だけでは、西欧列強に勝てず、同時に政治改革もしなければならないという主張が生まれた。それが変法派の立憲運動である。中国の伝統的な皇帝専制の政治体制を堅持したままでの経済改革だけでは国力は強くならないというのが基本的見解である。西欧列強が強国となった原因は資本主義的産業革命を実現したと同時に、政治的民主化を進め、国民統合を実現したからであると認識し、中国でも同時に皇帝専制を改革しなければならないと主張した。
 だが、康有爲たちの政治改革は、皇帝専制を民主化するという改革路線であり、立憲君主制に改革し、国民の心を汲み取る賢明で開明的な啓蒙的君主(皇帝)が憲法の枠の中で広く民意を聞きながら上からの政治的民主化を進めるという主張である。モデルは明治維新後の立憲君主的明治憲法体制であった。康有為は変法(制度の変革)に共鳴した光緒帝に抜擢され、1898年に有名な「戊戌変法」の政治維新を実行したが、清朝保守派に潰されて「百日維新」で挫折した。
 しかしこの主張には一つの隘路があった。時の王朝は漢民族の王朝ではなく、異民族である満州民族の王朝であったということである。政治的民主化と漢民族としての国民統合を進めるためには、まず異民族としての満州王朝を打倒する必要があり、同時に新しい世界を築くには時代遅れの皇帝支配を克服した共和体制が望ましいという主張が生まれた。それが民族革命と民主革命を同時に実現しようという孫中山たちの革命路線であった。

中華民国―賢人支配の善政主義 (中公新書)

山内昌之『帝国のシルクロード』朝日新書 p.204

 イラン立憲革命は、日露戦争で火がつけられたともいえよう。戦争が起きると、その影響でロシアから砂糖の輸入が止まり、テヘランでは砂糖の値段が高騰した。砂糖は何によらず、紅茶好きのイラン人には欠かせない甘味料である。
 もちろん、カージャール朝(1796~1925年)におけるロシアに関連した借款の増大と、新しい関税制度への反感こそ、イラン立憲革命の大きな引き金になったことはいうまでもない。そして大事なのは、シーラーズィーに限らず、イランの人びとのなかには、日露戦争における日本の勝利をロシアの専制に対する立憲王制の勝利と考える者が多かったことである。

帝国のシルクロード 新しい世界史のために (朝日新書)

山内昌之『帝国のシルクロード』朝日新書 pp.191-192

 斉彬が黒船来航などアメリカの脅威を感じて改革の事業に乗り出したとすれば、ムハンマド・アリーは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト侵入(1798年)によって頭角を現した人物である。エジプトはオスマン帝国のなかでもいちばん豊かな州であり、二つの海を結びつけ二つの大陸にまたがる要衝であった。帝国の戦略的心臓部がフランスの小さな部隊によって易々と占領されたのである。しかも、そこで主に戦ったのはイギリスとフランスであった。つまり、中東のムスリムは自分たちの中庭で異教徒が野放図に戦うのを拱手傍観する屈辱を味わったのである。同じく斉彬の薩摩藩も黙っていれば、太平洋や東シナ海からひたひたと攻めてくる欧米の脅威の前に屈するはずだった。
 もちろん二人の間には大きな違いもある。斉彬の家は、鎌倉時代から薩摩島津荘の地頭職を務めた惟宗家に由来するが、島津氏の家譜では源頼朝を祖先としていた。このように斉彬は、守護大名と戦国大名をともに経験した由緒正しい家柄の出身で、徳川将軍家ともときには縁戚となった七七万石の太守の名流に生を享けたのである。西郷隆盛にしても下級家臣とはいえ鹿児島の城下士として素性が正しい侍なのであった。他方、ムハンマド・アリーはマケドニアのタバコ商人の子とも夜警長の子ともいわれ、庶人から立身出世してエジプトに移った野心家である。しかも、帝国のエリート軍人に多かったトルコ人やカフカース人でさえなかった。かといって彼はアラブ人でもない。ありようは、生涯アラビア語を不得意としたマケドニア人であり、おそらく今の感覚ではアルバニア人と表現したほうが適切かもしれない男にすぎない。
 それでも、武士の鑑と近代のファラオともいうべき二人の間には驚くほど共通点も多い。斉彬の集成館事業とタンジマート(あるいはムハンマド・アリー改革)はともに、19世紀前半のアジア大陸の西と東を代表する富国強兵と殖産興業の営みであり、いずれも徳川幕府の治める日本国家とオスマン朝の支配するイスラーム帝国の行き詰まりを何とかして打破しようという気概にあふれていた。なかでも、この二人は西欧による侵略と分割の脅威に直面して、政治をリアリズムの観点から見すえざるをえなかった。そこで産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化をはかった点に共通する特徴がある。

帝国のシルクロード 新しい世界史のために (朝日新書)

中西進『古代往還』中公新書 pp.249-250

 中央アジアにはカラ(khara/kara)という接頭語をつけた地名が多い。カラコルム山脈、カラホト、カラクム砂漠のように。またカラハン王朝といったたぐいである。
 このカラは黒を意味するが、さてその黒について、アンカラ大学の東洋学者オトカン教授は「黒は北、紅は南、白は西」のことだといった。だから北の海が黒海で、紅海は南にある、と。
 そもそもカラはモンゴル語とかトルコ語とかと考えられているが、本来アルタイ系語族に属している。それはトルコへひろがったと同時に朝鮮半島経由で日本に入ってきたはずだ。――そう服部さんは考える。
 そこで話が俄然おもしろくなる。このカラが朝鮮、中国をいうときのカラだというのである。
 カラは黒で北方を意味する。すると「天子南面」の思想とひとしく、天子は北にいるから、カラは宇宙の中心でもある――これも服部さんの意見だ。

古代往還―文化の普遍に出会う (中公新書)

中西進『古代往還』中公新書 pp.7-8

 ゾロアスター教という古代ペルシャの宗教がある。拝火教と訳されることがある。この宗教が古代日本にも入ってきていたというのが松本清張さんの主張で、小説『火の回路』(刊行時『火の路』)がかかれた。
 拝火教と訳されるように(ゾロアスターというのは予言者の名である)、太陽、星、火などを崇拝する。
 この宗教の最高神はアフラ・マズダという。アフラは神、マズダは知恵のことだ。最高神だからアフラ・マズダは一切の正義、秩序、慈悲、光明の神とされる。光明――正しくは輝きの神だから、日本でマツダランプという電球が売りだされたことがある。松田さんが作った電球ではない。
 さてこのアフラの神はペルシャでは最高の神とされたが、一方インドでは悪神とされた。阿修羅がそれである。サンスクリット(梵語)ではアスラという。

古代往還―文化の普遍に出会う (中公新書)

宮田律『中東イスラーム民族史』中公新書 p.72

 9世紀になると、シュウービーヤ運動(アッバース朝初期、アラブと非アラブとの平等を主張したイスラームの文化運動)が盛んとなり、その結果イラン人は、イスラームの信仰をもちながらも、ペルシア語を使用するようになった。行政用語や歴史的著作、神学などはアラビア語で書かれたが、詩は圧倒的にペルシア語で詠まれる。
 その背景には、イラン人が、フィルダウスィー(934~1025)の『シャー・ナーメ(王書)』などを通じて自らの過去を振り返っただけでなく、『王書』がペルシア語の標準語をイラン人の間に浸透させ、ペルシア語方言の使用を大いに減ずることになったことなどが挙げられる。『王書』は、イスラーム以前の古代イランに関する一大叙事詩であるばかりでなく、「新ペルシア語」の基礎ともなったのである。

中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ (中公新書)

宮田律『中東イスラーム民族史』中公新書 p.69

 アフラマズダに光明を見いだすことから、火を崇拝した。ゾロアスター教が「拝火教」と呼ばれるのはそのためである。イランのヤズド周辺では、現在でもゾロアスター教が信仰されており、私がヤズド郊外の山の中腹にある寺院を訪れたときも、祭壇では薪木が燃やされていた。作家の松本清張氏は、奈良・東大寺の二月堂のお水取りの行事はゾロアスター教の影響を受けたものではないかと推理している。

中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ (中公新書)

笈川博一『物語エルサレムの歴史』中公新書 p.32

 どうもここには二つのバージョンがあるようだ。一つはダビデがいきなり油を注がれて王になる話であり、もう一つはダビデがごく子供の時に始まるものであるらしい。後者のバージョンでのダビデの最初のエピソードはペリシテ人の豪傑、ゴリアテとの一騎打ちである。彼は、放牧している羊を襲うライオンやクマを撃退するのに使い慣れた石投げ紐で石を飛ばして勝利した。湯上りに左肩にタオルを掛けているように見えるミケランジェロのダビデ像がフィレンツェにあるが、この“タオル”が石投げ紐である。皮肉なことに1987年に始まったパレスチナ人の対イスラエル闘争、第一次インティファーダではこの石投げ紐でイスラエル軍の戦車に石を投げるパレスチナの少年たちが有名になった。ここでは強力なイスラエルがペリシテ人の英雄、ゴリアテになぞらえられたのである。

物語 エルサレムの歴史―旧約聖書以前からパレスチナ和平まで (中公新書)

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