横山宏章『中華民国』中公新書 pp.5-7

 その多様な違いを単純化することは無謀であるが、あえて単純化した公式的解釈によれば、それは三つのグループに分けられる。
 (1) 洋務派(洋務運動)曾國藩、李鴻章らの清朝重鎮の改革派
 (2) 変法派(変法運動・立憲君主運動)康有爲、梁啓超らの戊戌維新派
 (3) 革命派(立憲共和運動)孫中山、黄興らの辛亥革命派
 単純化した分類なので、さらにその特徴を単純化して説明すれば、次のようにまとめることができよう。洋務派とは、世界を制覇していたイギリス海軍の圧倒的威力を見せつけられた清朝幕閣が、急速なる建て直しを迫られたなかから誕生した。直隷・両江総督を歴任した曾國藩や、その後を継いだ直隷総督・北洋大臣の李鴻章は軍事的経済的改革に乗り出した。近代的産業の導入と振興を図り、経済的充実による軍事的強化で西欧列強に対抗する「富国自彊(強)」策を展開した。それは総称して洋務運動と呼ばれた。現代的に表現すれば、まさに「改革・開放」路線であった。
 しかし現代中国の「改革・開放」政策も、経済的改革だけでは不十分であり、政治的にも共産党一党独裁体制を改革しなければならないという政治改革の主張が生まれているように、当時の中国にあっても、同じように洋務派的経済改革だけでは、西欧列強に勝てず、同時に政治改革もしなければならないという主張が生まれた。それが変法派の立憲運動である。中国の伝統的な皇帝専制の政治体制を堅持したままでの経済改革だけでは国力は強くならないというのが基本的見解である。西欧列強が強国となった原因は資本主義的産業革命を実現したと同時に、政治的民主化を進め、国民統合を実現したからであると認識し、中国でも同時に皇帝専制を改革しなければならないと主張した。
 だが、康有爲たちの政治改革は、皇帝専制を民主化するという改革路線であり、立憲君主制に改革し、国民の心を汲み取る賢明で開明的な啓蒙的君主(皇帝)が憲法の枠の中で広く民意を聞きながら上からの政治的民主化を進めるという主張である。モデルは明治維新後の立憲君主的明治憲法体制であった。康有為は変法(制度の変革)に共鳴した光緒帝に抜擢され、1898年に有名な「戊戌変法」の政治維新を実行したが、清朝保守派に潰されて「百日維新」で挫折した。
 しかしこの主張には一つの隘路があった。時の王朝は漢民族の王朝ではなく、異民族である満州民族の王朝であったということである。政治的民主化と漢民族としての国民統合を進めるためには、まず異民族としての満州王朝を打倒する必要があり、同時に新しい世界を築くには時代遅れの皇帝支配を克服した共和体制が望ましいという主張が生まれた。それが民族革命と民主革命を同時に実現しようという孫中山たちの革命路線であった。

中華民国―賢人支配の善政主義 (中公新書)

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