斉彬が黒船来航などアメリカの脅威を感じて改革の事業に乗り出したとすれば、ムハンマド・アリーは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト侵入(1798年)によって頭角を現した人物である。エジプトはオスマン帝国のなかでもいちばん豊かな州であり、二つの海を結びつけ二つの大陸にまたがる要衝であった。帝国の戦略的心臓部がフランスの小さな部隊によって易々と占領されたのである。しかも、そこで主に戦ったのはイギリスとフランスであった。つまり、中東のムスリムは自分たちの中庭で異教徒が野放図に戦うのを拱手傍観する屈辱を味わったのである。同じく斉彬の薩摩藩も黙っていれば、太平洋や東シナ海からひたひたと攻めてくる欧米の脅威の前に屈するはずだった。
もちろん二人の間には大きな違いもある。斉彬の家は、鎌倉時代から薩摩島津荘の地頭職を務めた惟宗家に由来するが、島津氏の家譜では源頼朝を祖先としていた。このように斉彬は、守護大名と戦国大名をともに経験した由緒正しい家柄の出身で、徳川将軍家ともときには縁戚となった七七万石の太守の名流に生を享けたのである。西郷隆盛にしても下級家臣とはいえ鹿児島の城下士として素性が正しい侍なのであった。他方、ムハンマド・アリーはマケドニアのタバコ商人の子とも夜警長の子ともいわれ、庶人から立身出世してエジプトに移った野心家である。しかも、帝国のエリート軍人に多かったトルコ人やカフカース人でさえなかった。かといって彼はアラブ人でもない。ありようは、生涯アラビア語を不得意としたマケドニア人であり、おそらく今の感覚ではアルバニア人と表現したほうが適切かもしれない男にすぎない。
それでも、武士の鑑と近代のファラオともいうべき二人の間には驚くほど共通点も多い。斉彬の集成館事業とタンジマート(あるいはムハンマド・アリー改革)はともに、19世紀前半のアジア大陸の西と東を代表する富国強兵と殖産興業の営みであり、いずれも徳川幕府の治める日本国家とオスマン朝の支配するイスラーム帝国の行き詰まりを何とかして打破しようという気概にあふれていた。なかでも、この二人は西欧による侵略と分割の脅威に直面して、政治をリアリズムの観点から見すえざるをえなかった。そこで産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化をはかった点に共通する特徴がある。
帝国のシルクロード 新しい世界史のために (朝日新書)