江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 p.74

 くり返すようだが、1515年の皇帝とハンガリー王によるウィーン会議で二重結婚が約された時には、ハプスブルク家にハンガリー王冠が転がりこむ可能性はほとんどなかったのである。その道が開けたのも、偶然の賜物というしかない。華燭の典からほぼ10年後の1526年、当年20歳の若くすずやかな目もとのハンガリー王ラヨシュは、国境を侵して侵攻してきたオスマントルコ軍を撃退するべく、勇姿を馬上に、南の戦場へと馳せた。しかし戦なれのしていない彼はモハッチの野で大敗を喫し、将来を嘱望されながらも、空しくあたら生命を失った。
 ラヨシュ王の妃はハプスブルク家の王女マリアであり、また彼女の兄フェルディナントは故王の妹アンナの夫でもあったから、ハンガリー王冠がハプスブルクに帰属するのは当然のことだった。また古来の慣例上、ボヘミア(ベーメン)王はハンガリー王が兼ねていたために、フェルディナントはまもなく両国の王位に即くこととなった。

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

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