諸侯のなかでも、とりわけ聖界諸侯つまり大司教の権勢は絶大であった。そんな中で当時ライン河いったいは「お坊さん通り」と皮肉をこめて呼ばれるようになった。ドイツの大司教座のうち、マインツ、ケルン、トーリアと、三つがこの地域に集中し、ライン河と支流のモーゼルおよびマイン川沿いに広大な領地をもっていた。大司教座だけではなかった。コンスタンツ、バーゼル、シュトラスブルク、シュパイアー、ユトレヒトと、多くの司教座の領地が、上ラインから下ラインにいたる沿岸各地に散らばっていて、ライン河はあたかも「お坊さん通り」の観を呈していたのである。
この地域に多くの司教座が設けられるにいたった経緯は、ローマ時代にさかのぼる。ラインラント、ことにライン左岸は、すでにローマ帝国の属州時代にキリスト教化が行われた地域である。フランク王国時代には、この地に司教座が設けられ、ここを拠点として東方へのキリスト教の布教が進められていった。
11世紀にはラインの三大司教座の勢力は強大となっていた。ケルンの大司教座は、ミュンスター、ユトレヒト(現オランダの都市)、リエージュ(現ベルギーの都市)の各司教座を、トリーアはメッツ、トゥール(いずれも現フランス東部ロレーヌの都市)をその管轄下においていた。マインツ大司教座にいたっては、上ライン・中ラインの各司教座のほか、アウグスブルク、フランクフルト、バンベルクからさらに東方のボヘミアまで管轄していた。
彼らは国政にも関わることになった。ザクセン朝初代のオットー大帝が、反抗的な諸部族を抑えるため、行政を聖職者に委ねるという方針をとったため、ラインラントの各大司教座は皇帝の保護の下、その権勢をさらに強めることになったのである。三大司教には帝国大尚書長官の地位が与えられ、マインツ大司教がドイツの行政にあたったほか、ケルンとトリーアの大司教は、それぞれ当時帝国支配下にあったイタリア王国とアレラート王国(今日の南フランス東部)の行政を担っていた。
ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)