佐藤健太郎『炭素文明論』新潮選書 p.161

 イスラム教では、さらに厳しく飲酒は禁止されている。コーランでも「飲酒はサタンの業」とし、違反者には鞭打ちなどの厳しい刑罰が科された。飲酒が禁じられるようになったきっかけは、ムハンマドの二人の弟子が酒宴の席で流血の騒ぎを起こしたためと伝えられる。酔っ払いの喧嘩は古今数限りないが、そのうち後世に最も大きな影響を与えたのは、この二人の喧嘩であったことだろう。
 というのは、これが世界の宗教分布に大きく影響したという説があるからだ。イスラム勢力はたびたび北方へ攻め入り、現在のロシア圏などにも勢力を広げたが、支配者として定着するには至らなかった。これは、あまりに寒い地方では、酒を飲んで体を暖めないととても冬は過ごせないためである、というのだ。赤道付近の暑い地域を主体に広がっている現在のイスラム圏を見ると、このお話も全くの嘘ではないか、とも思える。いずれにしろ、イエスやムハンマドの酒に対する個人的なスタンスが、今の世界の形を大きく変えてしまっているのは事実だろう。

炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす (新潮選書)

津野田興一『やりなおし高校世界史』ちくま新書 pp.171-172

 男性の間に参政権が拡大してゆく19世紀という時代は、産業革命すなわち工業化の進展による資本主義経済とその価値観が広まってゆく時代でもありました。かつては、男性も女性も畑仕事や生産活動に従事していたため、男性と女性の権利にはそれほど大きな違いはありませんでした。しかし、男性が土地を離れて労働者になったり、工場を経営したりするようになり、産業社会が発展した結果、「男が外で働き、女は家庭を守る」という、性による役割分業が強まっていったのです。
 ところで、このような性別に基づく不平等を定着させてしまったのは、誰だと思いますか?それは皆さんも必ず知っている「あの人物」ですよ。
 女性も畑仕事や副業を営むことで生産活動に関与していた時代には、男女の不平等はさほど大きなものではなく、財産や家督の相続も男性と同様に可能でした。
 1789年に始まるフランス革命では人権宣言(正式には人および市民の権利宣言)が出され、人間の自由や平等が掲げられ、そのようなフランス革命の成果を「定着」させたと言われる1804年の『民法典』は、「夫はその妻の保護義務を負い、妻はその夫に服従する義務を負う」と第213条で規定し、続く第214条で「妻は夫とともに居住し、夫が居住するのに適当であると判断する場所にはどこへでも夫に従う義務を負う」と定めていました。
 さらに、妻は財産の所有権や管理権を否定されたため、経済的な自立も不可能となりました。この『民法典』は日本を含む世界各国の法典のモデルとされましたから、どこの国でも女性の立場と権利は同じようなものになってしまいます。
 この『民法典』は別名『ナポレオン法典』と呼ばれます。そう、女性を家庭に閉じ込めることに「貢献」してしまったのは、あのナポレオンだったのです。誰もが知っている有名人であるあのナポレオンには、このような側面もあったのですね。

やりなおし高校世界史: 考えるための入試問題8問 (ちくま新書)

津野田興一『やりなおし高校世界史』ちくま新書 pp.204-205

 余談になりますが、ドイツに対する講和を話し合うパリ講和会議が開かれたのは、1919年1月18日でした。これは1870~71年のプロイセン-フランス戦争(普仏戦争)で勝利したビスマルクらプロイセンが、フランスのパリ郊外にあるヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立を宣言したその日からちょうど48年目に当たる日です。
 また、ドイツに対するヴェルサイユ条約が調印されたのは1919年の6月28日で、これは第一次世界大戦のきっかけとなった1914年のサライェヴォ事件と同じ日でした。これらは偶然の一致と言い切ることができるでしょうか?戦勝国であるイギリスやフランスによる、ドイツに対する「復讐」という側面があることを感じずにはいられないエピソードではないでしょうか。

やりなおし高校世界史: 考えるための入試問題8問 (ちくま新書)

広瀬佳一『ヨーロッパ分断1943』中公新書 pp.33-34

 1922年のラッパロ条約によるドイツとの外交関係締結も、当初は外交的孤立打破のための試みに他ならなかった。しかしドイツとの協力関係は、次第に軍事面に拡大されていった。ドイツはヴェルサイユ条約で武器や兵器の生産や使用について、厳しい制限を受けていた。他方でソ連は、赤軍が軍事技術のうえでの後進性に悩まされていた。そこでドイツはソ連に飛行場を建設し、ソ連に軍事技術を供与するかたわら、自軍の飛行訓練や演習を行ったのである。両国軍部の協力関係は、のちの独ソ提携の伏線となった。
 この「ラッパロ」という言葉はその後、一人歩きをはじめ、独ソが接近する動きをみせるたびに、ヨーロッパの秩序が急変するのではないか、中欧を犠牲にして新秩序を構築するのではないか、という警戒の響きを伴って使われている。戦後の1970年代に当時のブラント西独首相が「東方外交」を唱えた折にも、「ラッパロ」の再現として警戒する論調がみられ、ドイツ統一後の1990年代においても、ロシアとドイツが援助を軸に関係を深める傾向に対して、中欧の国々から「ラッパロ」再来を懸念する声が聞かれている。

ヨーロッパ分断1943―大国の思惑、小国の構想 (中公新書)

飯塚信雄『フリードリヒ大王』中公新書 pp.6-7

 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(1657-1713)の母はオランダのオラニエ(オレンジ)侯女ルイーゼ・ヘンリエッテであり、その兄、オラニエ侯ウィレム2世の息子ウィレム3世こそ、イギリス王女メアリーと結婚して1689年共にイギリス王位を継ぎ、ウィリアム3世を名乗ることになった人物である。つまり、選帝侯の母方の従兄弟にあたる。
 さらに、文化的にもはげしい競争相手だった隣国ザクセン選帝侯のフリードリヒ・アウグスト1世(1670-1733)は1694年、すでにポーランド国王に推挙されている。こちらは正真正銘のポーランド王(König von Poland)になっているのだ。そして、フリードリヒの妻の里、ハノーファー選帝侯家ではイギリスのアン女王の死後には、ハノーファー選帝侯ゲオルグがジョージ1世としてハノーファー朝を興すことに話が進んでいた。そして、1701年の王位継承法によって、ジョージは1714年イギリス王となる。
 だから、王位を持たないがために不愉快な席次を強いられるフリードリヒが、何でもいいから王の称号を、と必死で願う気持ちは理解できる。

フリードリヒ大王―啓蒙君主のペンと剣 (中公新書)

大野徹『謎の仏教王国パガン』NHKブックス p.250

 アラウンパヤーが第三ビルマ王国を樹立し得た背景には、イギリスから提供された高性能の大砲の存在があった。彼は、フランス人がモン族に武器を供給していたことを知っていた。国内諸民族制圧の過程で、大砲の必要性を痛感した王は、ビルマを訪れたイギリス人たちに、大砲の供給を繰り返し要求した。

謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史 (NHKブックス)

大野徹『謎の仏教王国パガン』NHKブックス p.241

 その子ダビンシュエーティー(在位1531-51)の時代になると、タウングーの軍事的、政治的地盤が固まって、もはやシャン族は脅威の対象ではなくなった。1535年、ダビンシュエーティーは、デルタ地帯の拠点二か所の占領に成功した。ハンターワディー(ペグー)の防衛は堅固であったが、四年後の1539年には、これも落城した。末代のペグー国王は逃走した。ダビンシュエーティーの軍事力の中核は、ポルトガル人傭兵であった。

謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史 (NHKブックス)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.156-157

 カージャール朝廃止の機会をねらうレザー・シャーは、1924年秋から共和制運動を起こした。これは、前年に建国が宣言されたトルコ共和国にならって、彼の主導でイランにも世俗的な近代国家をつくろうとするものであった。成功したあかつきには、尊敬してやまないアタテュルクにならって、レザー・シャーが大統領の座につくはずであった。
 しかし、この共和制運動は、彼の思惑をこえて別な方向に展開していった。シーア派ウラマーが共和制に反対する声をあげたからである。イランのウラマーは、トルコでカリフ制が廃止された結果、イスラームがないがしろにされ、ウラマーの力が削がれたことを知っていた。共和制樹立によって同じような状況がイランに生じることを、ウラマーは恐れていたのである。
 レザー・シャーは、このウラマーを先頭にした共和制反対運動を巧みに誘導し、ついには彼自身を大統領にではなく国王にすえる王制運動にすりかえていった。そして、1925年、共和制運動は換骨奪胎されパフラビー王朝が成立した。ウラマーの時代錯誤な判断の誤りがレザー・シャーに幸いしたのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.178

 1850年代末までにカザフスタンとカフカスとの完全な征服を完了したロシアにとって、キジルクム砂漠とカスピ海の彼方にひろがるトルキスタンは、南方のイギリス勢力圏を牽制する第一の戦略要地となった。ここで軍事的な勝利がえられれば、それはクリミア戦争(1854-56年)での敗北の屈辱をぬぐい、帝国の威信も回復するはずであった。
 そして、アメリカ南北戦争(1861-65年)のために原料綿花の輸入が激減すると、トルキスタンの綿花はロシアの木綿工業にとって決定的に重要な原料となった。それは1915年にはロシアが必要とした原料綿花の実に六八パーセントを占めることになるのである。
 1864年、ロシアはコーカンド・ハーン国に対する軍事遠征を敢行し、翌年には中央アジア最大の商業都市タシュケントを占領した。コーカンド・ハーン国のたびかさなる支援要請にもかかわらず、みずからも「東方問題」に呪縛されたオスマン帝国になすすべはなかった。ロシア軍の攻撃についてブハラ・ハーン国軍の侵略とキルギスの反乱とにさらされたコーカンド・ハーン国は、1876年ついに滅亡し、肥沃なフェルガナ地方はロシア領となった。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.163-164

 オスマン帝国がスレイマン大帝の治世下(在位1520-66年)にその最盛期をむかえているとき、イスラーム世界の北辺をなす中央アジアでは、重要な変化がおこりつつあった。1552年にモスクワ大公イワン4世(在位1553-84年)が、ヴォルガ中流域の商業と交通の要衝カザンを占領したのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.32

 しかし、一方では内憂外患もつづいた。バルカンにおいては、近代西欧のナショナリズムの影響下に政治的独立を求めはじめた、非ムスリム諸民族の動きも強まりつつあった。そして、これに対するヨーロッパ列強の介入も増やしつつあった。このような状況下で、1829年には、セルビアの自治が認められた。1821年以来のギリシア独立運動も、1830年のギリシア独立をもたらした。
 他方、エジプトでは、特権拡大をめざすエジプト総督メフメット・アリ・パシャ(ムハンマド・アリー)が、1813年には、セリム3世時代以来メッカを占領してきたワッハーブ派追討の命令を実行し、ギリシア独立戦争にあたっても出兵して、スルタンに対し実績をつみかさねた。そして1823年には、オスマン中央政府に対し公然と反旗をひるがえし、オスマン軍をコンヤの戦いで破った。さらに1839年にもネジプの戦いで、ふたたびオスマン政府軍を大破した。
 アラブ地域のさらに西方、アルジェリアは1830年、フランスにより占領された。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

芝原拓自『世界史のなかの明治維新』岩波新書 pp.18-20

 たしかに当時のイギリスは、海外での大軍事行動にいそがしかった。黒海さらに地中海へのロシアの南下をおさえるとして、フランスと連合してクリミア戦争(1853-56)を戦ったイギリスは、クリミア半島のロシア軍要塞セバストポリを、三四九日間にわたる激戦のすえに陥落させた。その戦勝の直後に、中国でアロー号事件が勃発した。広東に停泊中のイギリス船籍をもつアロー号を、中国船とみなした中国官憲が臨検し、一二人の中国人船員を海賊容疑で捕えたのが事件の発端である。のちに第二代駐日公使となった広東駐在領事パークスは、無断捜査と国旗侮辱への謝罪、および乗組員のひきわたしを要求し、アロー号にイギリス国旗はなかったと謝罪を拒否する中国側との交渉を決裂させ、広東で砲火をまじえたのである。
 イギリスはいそぎ大軍を派遣し、エルギン伯爵を全権大使に任命した。フランスも、広西省でのフランス人宣教師殺害事件への賠償要求を口実として、グロー男爵を全権大使に任命し、イギリス軍との共同行動をとることにした。ところがエルギンは、中国への途上、セイロンでインド人兵士(セポイ)の反乱の急報に接し、軍の一部をインドに送った。イギリスのインド植民地支配にたいする、最初の全土的独立戦争(1857-59)が勃発したのである。イギリスは、クリミアの戦勝もつかのま、ふたたびインドの各地に大兵を派して、鎮圧に二年以上も要した。しかもその間、英仏軍は中国で広東を占領し、さらに上海から華北に兵をすすめ、天津や首都北京につうずる白河河口の大沽砲台を攻撃してこれを占領した。こうして、第一次アヘン戦争による南京条約よりもさらに屈辱的な天津条約(1858)を中国におしつけ、あらたな数港の開港、揚子江の通商航行権、公使の北京駐在権、外国人の内地旅行(商用・布教・遊歴を問わず)権などを獲得した。

世界史のなかの明治維新 (岩波新書 黄版 3)

梅田修『地名で読むヨーロッパ』講談社現代新書 p.62

 やがて、ポリスと言えばコンスタンティノープルを意味するようになり、「都へ」という意味で、一般にエイステーンポリーン(eis ten polin:城壁内へ)が使われるようになります。nの後のpはbに変わるので実際はエイステーンボリーンに近かったと考えられます。ギリシャ語eisはek(外へ)に対応する言葉ですので、「内へ」を意味する言葉でした。tenは冠詞です。このエイステーンボリーンがオスマン・トルコの支配下で、イスタンブール(Istanbul)とかスタンブール(Stambul)と呼ばれるようになるのです。

地名で読むヨーロッパ (講談社現代新書)

梅田修『地名で読むヨーロッパ』講談社現代新書 pp.40-41

 キプロス島は、フェニキア人が最も早く植民地を開いた所で、紀元前3000年ごろの遺跡さえ確認されています。地名キプロス(Cyprus)はギリシャ語kypros(銅)に由来するもので、このギリシャ語は英語copper(銅)の語源でもあります。フェニキア人は青銅器の出現とともに歴史に登場してきましたが、キプロスの上質な銅は、フェニキア人にとっては特に重要な交易品でした。

地名で読むヨーロッパ (講談社現代新書)

鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書 pp.223-224

 『スジャラ・ムラユ』は、マラッカ王国の王たちの歴史を描いたものであるが、マレー人の世界観で書かれた彼らの歴史である。マラッカ建国の歴史は、その祖たるマケドニアのアレクサンドロス大王のインド遠征から書きおこされる。いわゆる「アレキサンダー・ロマンス」は中世ヨーロッパにおいて流布された空想的な伝説であるが、その伝説はヨーロッパのみならずイスラーム世界にまでおよび、世界的規模でさまざまな伝説がつくられていった。イスラーム世界では、彼はあるときはイスラームの戦士として、あるときは国の始祖として描かれる。
 マラッカ王国も、アレクサンドロス大王からその歴史を書きおこすのである。その子孫のさまざまな冒険、ガラスの箱に入って海底の王国を訪れ、そこで王女と結婚するという龍宮城をほうふつさせる物語、さまざまな奇跡、海底の国からふたたび地上に戻った子孫たちによるパレンバン王家の物語から、ついにマラッカの建国に至るさまざまな物語、そしてマラッカ王国が最終的に1511年にポルトガルによって崩壊するまでの物語が語られる。

パクス・イスラミカの世紀 (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)
 

鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書 p.222

 スマトラ島におけるイスラームの伝播は、当然対岸のマレー半島にも影響をおよぼした。この半島の西海岸にマラッカ王国が建設されるのは、14世紀末のことで、ちょうど中国では、明の永楽帝が積極的な対外政策をとっていた時代であった。マラッカ王国の建設者パラメスワラはこの明の対外政策を背景に、その保護のもとに建国をなしとげるのである。
 パラメスワラは永楽3年(1405年)、永楽帝によって派遣された使節内官尹慶らにしたがって、はじめて使節を明に派遣する。永楽7年(1409年)永楽帝は正使太監鄭和に命じてマラッカに詔勅をもたらし、パラメスワラに銀印、冠帯、袍服をあたえ、彼を国王に任じた。このように、マラッカは明の政治的な庇護のもとに建国をする。パラメスワラ自身、1411年には鄭和の艦隊とともに明を訪れている。

パクス・イスラミカの世紀 (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 pp.35-36

 大統領としてのジェファーソンが残した最大の功績は、アメリカの領土を一気に倍増させた「ルイジアナの購入」です。ミシシッピ川西岸からロッキー山脈に至る広大な領域(現在の十五州にまたがった地域です)は、当時フランスが植民地化していました。しかし、英国と交戦状態に入ったナポレオンは戦費調達を最優先し、ルイジアナをアメリカに売却すると持ちかけたのです。しかも、急いでいたので全体で千五百万ドルという破格の安い値段でした。この時、ジェファーソンがフランスに派遣して交渉させたのが後に第五代大統領になるジェームズ・モンローです。彼は取引のチャンスを逃すまいと独断でナポレオンの要請を受け入れました。素早い判断は、後に大統領になる資質があったからかもしれません。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 pp.24-25

満場一致で二度も大統領に選出されたのはワシントンだけです。副大統領は独立宣言の起草者の一人で、後に第二代大統領となるジョン・アダムズが二期とも選出されました。
 ワシントンは最初の国務長官に建国の英雄の一人で、州権主義を唱えるトマス・ジェファーソンを任命し、財務長官には中央集権主義のアレグザンダー・ハミルトンを配して、バランスを取りました。しかし、ジェファーソンの共和派(リパブリカンズ=Democratic-Republicans)と、ハミルトンの連邦派(フェデラリスツ=Federalists)は次第に対立を深め、ワシントンが三選を辞退した後は、両派の確執は激しさを増していきます。ワシントン自身の考え方は連邦派に近いものでした。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 p.19

 新憲法に則って、独立の英雄ワシントンが初代大統領に就任。第二代のジョン・アダムズ、第三代のジェファーソン、第四代のジェームズ・マディソン、第五代のジェームズ・モンローと、独立戦争を戦った指導者たちが相次いで大統領の座に就きます。特に、アダムズを除く四人は植民地時代のバージニア州の出身者で、その後も四人の大統領を輩出。全米で最も多くの大統領を送り出した州になっています。ちなみに、アダムズとジェファーソン、モンローはいずれも亡くなった日が7月4日の独立記念日。しかも、アダムズとジェファーソンは独立宣言からちょうど50年後の1826年7月4日に同時に亡くなっています。偶然でしょうが、それだけ初期のアメリカの指導者は独立への思いが強かったと言えるかも知れません。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 pp.164-165

ルターはドイツ語の聖書を作ったことで知られている。だが黒死病の荒れ狂う真只中で、オックスフォードのジョン=ウィクリフ(J.Wycliffe,c.1320-84)を中心とする聖書の英語への翻訳運動が完成したことを、われわれは見落とすべきではないのである。
 クラウズリー=トンプスンは『歴史を変えた昆虫たち』のなかで、こうした「日常言語」重用の思想を黒死病の直接的影響の一つとして挙げている。イギリスにおける、ラテン語はもちろんフランス語重視の態度は、ノルマン征服以降のイングランドの習慣となっていたが、黒死病によって、年配のフランス語教師たちがすっかりいなくなってしまった結果、フランス語やラテン語を知らない人びとが、イングランド語で発言することが可能になった、というのである。

ペスト大流行―ヨーロッパ中世の崩壊 (岩波新書 黄版 225)

宮崎正勝『海図の世界史』新潮選書 pp.255-256

 水夫からたたきあげで海軍士官(航海長)になったジェームズ・クックは、フレンチ・インディアン戦争(1755-63)中のケベック包囲戦に航海長として参戦し、セントローレンス川河口の測量と海図の作成によりその手腕が評価された。1760年代になると、強風が吹き荒れ、夏でも海霧に覆われるニューファンドランド島を五年間にわたって測量し、航行が困難な海域での海図の作成で功績を残した。クックが現場で身につけた優れた測量技術、海図の作成技術は、イギリス海軍本部、イギリス王立協会の注目するところになり、やがて新たなミッションがクックに与えられることになった。
 1766年、王立協会は太陽の全面を通過する金星の観測を計画し、クックを観測船エンデバー号の船長として南太平洋に派遣した。観測の狙いは金星と太陽の距離の正確な計算だった。命を受けたクックは1768年にプリマスを出港、大西洋を南下して南アメリカ南端のホーン岬を迂回し、太平洋を横断する大航海の後にタヒチ島に到着した。そして三カ月間にわたり、王室天文官の金星観測を助ける使命を果たした。観測終了後、クックは海軍本部の指令で「プトレマイオスの世界図」以降謎とされて来た「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」の探検に転じることになった。探検の真の目的は、「未知の南方大陸」にあると考えられていた黄金の獲得だった。クックはタヒチ人を水先案内人として南方海域に乗り出し、ニュージーランド南島と北島の間の海峡(クック海峡)を発見した、そして更に、ニュージーランドの海岸線を詳しく海図化する。

海図の世界史: 「海上の道」が歴史を変えた (新潮選書)

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