井上浩一・栗生沢猛夫「ビザンツとスラブ」中公文庫 pp.418-419

 14世紀は東中欧諸国にとって黄金時代であった。ドイツつまり神聖ローマ帝国は皇帝と教皇の権力争いで東中欧に介入する余裕を失い、13世紀には猛威をふるったモンゴル(キプチャク・ハン国)も、また南方の大国であるビザンツも急速に受け身になったからである。それに何よりも各国の経済的発展と内的安定化が大きかった。この時代、東中欧には二人の皇帝(神聖ローマ皇帝カール4世と「セルビア人とローマ人の皇帝」ステファン・ドゥシャン)と二人の大王(ポーランドのカジミェシ3世とハンガリーのラヨシュ1世)がでた。各国の国内情勢を詳しくみればこの繁栄はある程度表面的だったと言わざるをえないが、他の時代と比べれば、たしかに安定した時代であったといえる。
 14世紀はまた東中欧三国で、それぞれ建国以来の民族王朝が断絶し、外来の王朝が開かれた時代である。ハンガリーでは1301年にアールパード朝、ボヘミアでは1306年にプシェミスル朝、ポーランドでは1370年にピャスト朝がそれぞれ断絶し、ハンガリーではアンジュー朝、ボヘミアではルクセンブルク朝、ポーランドではヤギェウォ朝が支配することになったのである。このことは三国に、王朝とは異なる、国家ないし国民の観念が芽生えるきっかけを与えることとなった。それがはっきりとした形をとるのはしばらく後のことになるが、国王と対立する貴族らの動きの中には、そういった側面もあることを見逃してはならない。

ビザンツとスラヴ (世界の歴史)

岡崎久彦『繁栄と衰退と』文藝春秋 pp.144-145

ネーデルラントがなぜヨーロッパの倉庫となったかといえば、まずその地理的条件である。ネーデルラントの東方の海であるバルティック海は、ヨーロッパの南部がオットマン・トルコに抑えられて以来、中欧、東欧、ロシア全域に及ぶ極めて大きな市場と生産地を背後に持っていた大通商路貿易地域であった。
 また、ヨーロッパ中部はライン河がその貿易の幹線であった。したがってライン河の河口に位置し、バルティック海、大西洋に面しているネーデルラントが地理的に最も適していて、トルコの進出による地中海貿易の衰退とともに、ヨーロッパの中継貿易の中心となった。
 フランスの主要輸出品であるワインも、収穫し醸造した頃にはバルティック海は氷結してしまうので、ネーデルラントの倉庫にまず送り、雪解けを待って中欧、東欧に輸出された。また、バルティック沿岸の主な産品である木材と穀物のようなかさばる商品(バルキー・トレイド)の貿易には、そのための専用に造られ、船の容積に較べて乗員の数が少なくてすむネーデルラントの船が適していて、英国船のような多目的船はコストで太刀打ち出来なかった。

繁栄と衰退と―オランダ史に日本が見える (文春文庫)

山崎元一『古代インドの文明と社会』中公文庫 pp.170-171

 ナンダ朝は二世代三十年ほどの短命な王朝であったが、この王朝が果たした旧秩序の破壊者としての役割は重要である。中国史との比較でいえば、ナンダ朝は秦、それに続くマウリヤ朝は漢に相当する。秦は旧秩序を破壊して中央集権支配のために改革を性急に断行し、自身は短命であったが漢帝国の繁栄への道を開いた。これと同じくナンダ朝は、次のマウリヤ朝による帝国建設のための露払いの役目を果たしたのである。
 前320年ころマガダ国の辺境で兵を挙げたチャンドラグプタは、都のパータリプトラに攻め込んでナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創始した。かれはその後ただちに西方に進軍して、アレクサンドロスの死後の混乱状態にあったインダス川流域を併合し、さらにデカン方面へも征服軍を送った。
 ギリシア側の文献によると、チャンドラグプタの軍隊はナンダ朝の軍隊の約三倍、歩兵だけでも六〇万、騎兵は三万、象は九〇〇〇、戦車は数千であったという。ここにインド史上はじめて、ガンジス・インダス両大河の流域とデカンの一部を合わせた「帝国」が成立した。
 チャンドラグプタはさらに、前305年ころアレクサンドロスの東方領の奪回を目指して侵入してきたセレウコス・ニカトールの軍を迎え撃ち、その進軍を阻んだ。そして、講和条約を結んで、五〇〇頭の象と交換に現在のアフガニスタン東部の地を獲得した。四年後にこの象の大部隊は、西アジアの覇権をかけたイプソスの戦いにおいて、セレウコスの勝利に貢献することになる。

世界の歴史 3 古代インドの文明と社会 (中公文庫 S 22-3)

中村元『古代インド』講談社学術文庫 p.360

 インドでは、5世紀中葉に西北方から匈奴(サンスクリットでフーナ Huna)が侵入してきて、455年にはインドの統一政権を形成していたグプタ王朝の国家を攻撃している。グプタ朝はインド史上においてもっとも強大な中央集権的政権を確立していたのであったが、480年以降はさしも栄華をほこったこの王朝もしだいに衰え、500年ごろには匈奴王トーラマーナ(Toramana)がインドで即位し、あと約半世紀ほどは、西インドのマールワー(Malwa)の支配がつづいている。
 その後インドではハルシャ王(7世紀前半)がかなり広範囲にわたってインドを統一したが、彼の没後、インドはまったく四分五裂の状態におちいり、インド最初のイスラーム教主クトゥブッディーン・アイバク(Kutub uddin Aibak)が1206年に北部インドを統一するまでは、そのままの政治的混乱状態がつづいていた(西洋では、ほぼ同時代に、同じく匈奴の長アッチラが441年にドナウ川をわたり、さらに452年にイタリアに侵入し、476年にはにしローマ帝国が滅亡している)。

古代インド (講談社学術文庫)

中村元『古代インド』講談社学術文庫 pp.165-166

 その当時、ガンジス川平原における最大の政治勢力はマガダ国であり、インドはナンダ王朝の支配下にあったが、同国出身の一青年チャンドラ・グプタが卑賤の身分から身を起こして、西紀前317年ごろに、おそらく北西インドにおいて挙兵し、同地域からギリシアの軍事的勢力を一掃してマガダ地方に侵攻した。そうしてさらに、北はヒマラヤ山麓におよび、南はヴィンディヤ山脈を越えて南インドにわたり、東はベンガル湾、西はアラビア海に達するインド最初の大帝国を建設した。
 たまたまシリア王セレウコス・ニーカトール(在位前305~前281)が、西紀前305年にインダス川を越えて侵入してきたが、チャンドラ・グプタはその軍隊を撃破した。そして、講和条件として、両王家のあいだに婚姻関係が結ばれ、チャンドラ・グプタはセレウコスの王女を妃としたらしい。また、チャンドラ・グプタは、アリア、アラコシア、ゲドロシア、パロパニサダイの四州(Satrapeia)を手に入れ、これに対してセレウコスは象五百頭という比較にならぬ小額の代償をえただけであった。
なぜセレウコスは、そのような広大な領地を割譲してまで、象五百頭を欲したか。むろん、これらの象は愛玩用でもなかったし、荷物の運搬のためのものでもなかった。それは当時最強の戦力だったからである。
 彼は、のちにこれを西方の戦線に出動させる。象隊による戦法は西方においてはまったく新しいものであった。そして、小アジアにおけるイプソスの会戦(前301年)において勝利を決定する原因となった。セレウコスはこれによってアンティゴノスを破り、シリア王国の基礎を固めた。そして、これを契機として、その後、西洋の戦争に象隊が使用されることになる。

古代インド (講談社学術文庫)

鈴木秀夫『気候の変化が言葉をかえた』NHKブックス pp.111-112

ヨーロッパにおいては、第2図にあるように南下するインド・ヨーロッパ系の人々のうち、ギリシア人が3800年前ころバルカン半島に入り、ヒッタイト人は4000年前ころアナトリア高原を支配する。アーリア人は3500年前ころインダス川のほとりとメソポタミアに到達する。インダス文明の担い手であったドラヴィダ人は南東に追いやられる。メソポタミアのハンムラビ王朝はアーリア人侵入に先立ち、ヒッタイトの攻撃で3500年前ころ滅ぼされる。
 アフリカにおいては、サハラ中央部で4000年前ころ、本格的な乾燥化がはじまったことは先に述べたが、このころアハガル台地にいたフルベ人がセネガルにむかっており、またサヘルへ南下する人の動きも報告されており、これらが乾燥化に追われた移動であったと推測される。
 中国大陸においては、4000年前ころ、黄河の中流にいた苗人が漢人に追われ大挙して南下し、長江中流に移動したという説があり、第一部において特異な存在として注目した侗人も、もと中原にいたが、苗人に追われて南遷をしたという伝承があるという。

気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ (NHKブックス)

鈴木秀夫『気候の変化が言葉をかえた』NHKブックス pp.160-161

 ヨーロッパの10世紀は、まだ侵略者の力が強かったが、955年にはハンガリー騎兵による略奪は阻止される。
 ノルマン人はまだ力があり1030年ころ南イタリアに上陸し、これに対してローマ教皇がビザンツ帝国と結んでおさえようとしたが失敗、その過程で両者の反目が表面化し、1054年、互いに破門をするという事態にいたる。
 もうひとつのヨーロッパへの侵入者はアラビア人であったが、11世紀の初頭には、イベリア半島で軍事的優位を失う。アラビア人とマジャール人による侵略が終わると、西欧世界の拡大が行なわれる。1050~1300年の大開墾時代は、高温に助けられたものと考えられ、ドイツ人の東方植民が行なわれる。ドイツ人の東進はその東にいたスラブ人の東進でもあり、これはかつて寒冷化によってドイツ人がいなくなったところへスラブ人が入ってきたのとは違って、ドイツ人が攻撃をしかけている。1000年ころ、スラブ諸語の最終的な方言分裂が行なわれたということであるが、このような移動にかかわりがあるのかも知れない。
 11世紀から13世紀にかけての人口の増加はスペインでも顕著で、言語にかかわることを述べると、このころラテン語が後退しロマンス諸語に分かれる。地中海地域は西欧のキリスト教によって再征服され、やがて1096~1099年の第一回十字軍となる。

気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ (NHKブックス)

蟹澤聰史『石と人間の歴史』中公新書 p.76

 デルポイは地震の多い地域にある。実際、多くの建物が地震で破壊された。デルポイには、ギリシア最古の神託所があった。アポロン神殿の神託は、地の深い亀裂から響いてくる意味不明の託宣を巫女が聞き唱え、それを神職者たちが解釈したものだという。付近を通る断層から流出したメタン、エタン、エチレンなどの軽い炭化水素を吸い、恍惚状態になって発した叫びが巫女の託宣であるという説が浮上している。

石と人間の歴史―地の恵みと文化 (中公新書)

柿崎一郎『物語タイの歴史』中公新書 p.111

 コメの輸出自体はすでに「開国」前から存在しており、古くはアユッタヤー時代にまで遡る。ところが、19世紀に入り東南アジアに列強諸国から本格的に進出し、植民地経済が構築されていくと、島嶼部を中心にコメの需要が急増した。すなわち、島嶼部において列強諸国が特定の商品作物栽培を奨励あるいは強制した結果、消費用のコメを外国に依存する必要が生じたのである。この島嶼部の「米蔵」として注目を浴びるようになったのが、大陸部の三つのデルタ、すなわちエーヤワディー、チャオプラヤー、メコンの各デルタであった。以後タイにおける商品作物としてのコメの栽培の急速な拡大をもたらし、これまで人家もまばらで猛獣の跋扈していたチャオプラヤー・デルタが運河掘削によって一大水田地帯へと変貌する契機でもあった。タイのコメ輸出量は、バウリング条約締結当時は年五万トン程度に過ぎなかったが、19世紀末には五〇万トンに達するまでに拡大した。

物語タイの歴史―微笑みの国の真実 (中公新書 1913)

柿崎一郎『東南アジアを学ぼう』ちくまプリマー新書 pp.31-32

 1884年にベトナムの植民地化を完了したフランスは、三国干渉の結果ベトナム(越)から雲南(滇)へ至る滇越鉄道の敷設権を確保し、1910年までに全線を開通させました。この滇越鉄道の起点となったのがハノイの外港であったハイフォンであり、終点は雲南省の省都・昆明でした。この鉄道は昆明に到達した初の鉄道で、第二次大戦後に中国国内から鉄道がのびてくるまで、雲南省と外界とを結ぶ文字通りの生命線として機能していました。
 1937年に日中戦争が始まると、中国の蒋介石が率いる国民党政権は長江(揚子江)中流の重慶に拠点を構え、日本に対する抗戦の拠点としました。この重慶に対して、アメリカやイギリスなどの後の連合軍は支援物資を輸送することになり、日本側に妨害されないような輸送ルートを探しました。これがいわゆる援蒋ルートと呼ばれるもので、その際に最も便利なルートが、この滇越鉄道を利用するルートでした。このため、第二次大戦が始まって1940年にフランスがドイツに敗退すると、日本は援蒋ルートの遮断を名目にフランス領インドシナ(仏印)北部への軍隊の進駐を認めさせたのです。やがて日本軍は仏印南部にも軍隊を進め、1941年12月にマレー半島とタイへ侵攻することでいわゆる太平洋戦争が始まるのです。

東南アジアを学ぼう 「メコン圏」入門 (ちくまプリマー新書)

越智道雄『大英帝国の異端児たち』日経プレミアシリーズ pp.127-128

 この状況で1874年、二度目の政権を奪ったディズレーリは、どうしたか?ついに「露土戦争」(1877~78年)が勃発、キリスト教と救出を名目にバルカンに侵攻したロシアが勝って、ビスマルクが戦後処理にかこつけて自国の勢力を扶植すべく「ベルリン会議」(1878年)を開いた。プロイセンにバルカンで漁夫の利を占めさせれば、すでに普仏戦争(1870~71年)に大勝したプロイセンが、ロシアに加えて新たな脅威となる。まずディズレーリが女王を「インド女帝」に祭り上げたが、それは以下の戦略に基づいていた。
 (1)ロシア皇帝より格上げし、中央アジアをロシアから奪取してカスピ海以西に封じ込める。(2)そのためにアフガニスタンに侵攻までした。(3)そこで彼はプロイセン、ロシア、トルコの間に割って入り、バルカン四国の独立に対してはトルコのためにケチをつけた(ブルガリアの完全独立を阻止)。(4)ロシアにはカフカスの領有権だけで抑えた。(5)さらにディズレーリは抜群の海軍力にもの言わせてダーダネルス海峡に艦艇を派遣して示威行為を展開、ちゃっかりキプロスの占領行政権をせしめて、ビスマルクに「あのユダヤ爺めが、やりおるわ」と舌打ちさせたのである。
 結果的にプロイセンにロシア封じ込め役まで押しつけたディズレーリは、以後三十六年間、ヨーロッパから戦火を遠ざけた。まさに「一角獣」が、縦横無尽に突きまくったのである。

大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)

岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.139-141

 1252年、フビライは陜西省から軍を率いて、東チベットの高原を南下し、いまの雲南省にあったタイ人の大理王国を征服した。タイ人たちはこれがきっかけで、雲南省から南下をはじめ、ラオスと北タイにひろがった。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.196-197

 明朝に先立つ元朝では、長距離貿易の決済のために、軽い通貨が必要になり、世祖フビライ・セチェン・ハーンが1260年、「中統元宝交鈔」という紙幣を発行して、しばらく安定した。しかし1276年の南宋の平定後、中統鈔の発行額がふくれあがって銀準備が不足し、インフレーションになったので、1287年、新たに「至元通行宝鈔」を発行するとともに、金・銀との兌換を禁止した。これ以後、この世界初の不換紙幣は安定して流通したが、武宗ハイシャン・クルク・ハーンが立つと、一転して放漫政策をとり、巨額の紙幣を放出したので、ふたたび激しいインフレーションになり、その対策として1309年「至大銀鈔」を発行した。しかしこれも効果がなく、中統鈔・至元鈔のみの発行をつづけざるを得なかった。明朝の財政は、初期の洪武帝の「大明宝鈔」が、元朝のまねをして不換紙幣であったので、永楽帝の末期には信用を失って価値が極端に下落し、元朝のときのような好景気には二度とならなかった。
 ところが隆慶帝の末年の1571年、メキシコから太平洋を渡ってきたスペイン人が、フィリピンにマニラ市を建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れ込みはじめたので、そのおかげで中国では、空前の消費ブームが巻きおこった。この明朝経済の高度成長が、大きな国際関係の変化の原因になるのである。
 その結果、女直人たちが住んでいる森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、この1571年に13歳だったヌルハチたちも、富を蓄積して力をつけることができたのである。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 p.157

 モンゴルでは、モンゴル語をウイグル文字で書く習慣がすでに確立していたので、せっかくつくったパクパ文字はあまり普及しなかった。しかし、パクパ文字は、元朝の支配下の高麗王国に伝わり、その知識が基礎となって、高麗朝にかわった朝鮮朝の世宗王がハングル文字をつくり、それを解説した『訓民正音』という書物を1446年に公布した。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 p.151

 そのうちに、宋代にいたって、道教中心の思想体系はそのままに、ただ用語を古い儒教の経典のものでおきかえた新儒教が出現した。周敦頤(1017~1073年)・張載(1020~1077年)・程顥(1032~1085年)・程頤(1033~1107年)らがその代表者で、福建の新開地の地主の朱熹(1130~1200年)の手によってこれが完成し、総合的な思想体系となった。これが新儒教で、また宋学、朱子学、道学、性理学ともいう。新儒教は、万物の根源を理・気の二気とし、気よりも理に優位をあたえる理学を唱えた。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.76-78

 紀元前6世紀末から前5世紀はじめの哲学者・孔丘(孔子)の創立した儒教をはじめとする諸教団は、それぞれ独自の経典をもち、その読み方を教徒に伝授して、それを基準として漢字の用法、文体を定めていた。つまりテキストにはそれぞれ、それを奉じる人間の集団が付随しており、その読み方の知識、技術は師資相伝の閉鎖的なものであった。
 前213年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 p.109

 11世紀になると、インドから多数の仏教学者たちがチベットへ逃げこんできた。これはこのころアフガニスタンのトルコ系イスラム教徒が北インドに侵入を開始し、仏教に強烈な迫害をくわえたからである。インドの高僧たちは、仏教の神学・哲学だけでなく、医学、天文学などあらゆる科学技術をもちこんできた。チベットが完全に仏教化したのはこのときからである。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 pp.21-22

 地図をみよう。まず気がつくことは、ふるくひらけた国家の中心は、かならずモンゴル高原から北シナの平野におりてくる通路の終点にあることである。東のほうからかぞえると、北京は春秋戦国時代の強国燕の首都であった。これはちょうど内モンゴルから張家口、居庸関をとおって北シナの平野に一歩ふみいれた位置にある。黄河の北には紀元前14世紀に建設されたシナ最古の都市の遺跡である殷墟のある安陽と、戦国時代の大国趙の都であった邯鄲とがくっつきあってならんでいる。
 このふたつの都市は、いずれも山西省の高原の太原方面から渓谷ぞいに太行山脈の切れ目をとおりぬけて北シナの平野にでてきた位置にある。太原は北のかた雁門関をとおって大同の盆地につらなり、大同が内モンゴルに接していることはいうまでもないだろう。黄河の南には洛陽の盆地がある。ここは周代の東都であったが、太原から太行山脈の西側をとおって南下するルートの終点である。さらに西方には、西周の都西安と秦の都咸陽が渭水の渓谷にならんでいる。ここは内モンゴルのオルドス地方、寧夏の銀川方面から固原をへてはいってくる交通路の先端にあたる。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 pp.107-108

 地理からみれば、チベットは一本のトンネルに似ている。一方の出口は崑崙山脈の西端と、カシミールのカラコルム山脈のあいだで、東トルキスタンのタリム盆地の西南辺のホタンあたりにひらいている。もう一方の出口は、黄河の水源地から青海の西寧あたりにひらいている。そしてトンネルの内部では、チベットの南境をかぎるヒマラヤ山脈にそって、ツァンポ川が延々と東に流れ、その渓谷は気候が温和で農耕に適している。この農耕地帯の北側に平行して、湖の多い草原地帯がずっと東西にのびているが、雪が多いので農耕には適せず、むかしから遊牧民の住地になっている。この遊牧地帯の両端が、さっきいったホタンと西寧なのである。遊牧地帯のさらに北、崑崙山脈よりの広大なチャンタン高原はきわめて乾燥していて水がないので、人間はおろか野獣も住めぬところである。これがトンネルの北壁をなしているわけである。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社学術文庫 p.116

 このウィクリフの思想をボヘミヤで実現しようとしたのがヤン・フスである。ウィクリフはオックスフォードで教鞭をとったが、ボヘミヤとイギリスの王室が姻戚関係にあり、その結果オックスフォード大学とプラハ大学の間に交流があって、ウィクリフの思想がプラハに伝わったのである。フスはプラハ大学の学長であった。

キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社学術文庫 pp.83-84

マホメット(Mahomet 570頃-632)後一世紀にして、東はインド北部、西はアフリカ北岸を経てイベリア半島までがイスラムの世界になった。ということは、地中海世界の統一性が破れ、地中海商業もなりたたなくなったということである。その結果、ヨーロッパは自然経済へ依存する他はなくなり、それがヨーロッパ世界を封建社会へ向かわせる一因となった。

キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)

山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.140-141

 ルターとトルコの脅威と十字軍への反対との間に、どのような関係があるのか。いぶかしく思う人も多いだろう。しかし、それはかなり密接に関係している。
 ヨーロッパはなぜこのような状況に陥ったのか。トルコになぜ負けつづけるのか。トルコはなぜヨーロッパに迫ってくるのか。15世紀後半から16世紀前半にかけて、この事態に深い疑問を抱く人々が現れていた。誰が悪いのか。なるほどトルコ人は異教徒で、彼らは敵かもしれない。だが、彼らの進出もまた神のなせる業ではないのか。だとすると、それはどう解釈されるのか。キリスト教徒は何をなすべきなのか。鋭敏な人々はそう考えはじめていた。
 フィレンツェの宗教改革者サヴォナローラ(1452-89年)もその一人だった。彼は十字軍に賛成せず、むしろ教会の腐敗を攻撃した。将来トルコ人はキリスト教に改宗する可能性があり、それは「誤ったキリスト教徒の処罰」と軌を一にするだろう。彼はそう主張した。そもそもトルコの勝利は、内戦と堕落した教会に対する神の怒りである。神の怒りの表現である異教徒は反キリストの使者、あるいは神の懲罰の道具にすぎない。そのような異教徒と戦うことははたして必要なのか。有益なのか。それは、本当に合法なのか。彼はそう問いかけた。
 この改宗の可能性については、神学者であり哲学者であるニコラウス・クザーヌスもまた重視していた。彼はコーランの研究を進め、キリスト教とイスラム教の類似点を考察した。彼の『コーランの検証』は、イスラム教徒をキリスト教徒に改宗させることを目的としたもので、彼の友人でローマ教皇ピウス2世に献呈された。
 クザーヌスと同じ線上でトルコに対しようとしたのが、偉大な人文主義者エラスムス(1466-1536年)だった。エラスムスもまた、コーランのうちにキリスト教的要素のあることを認め、イスラムの理論の「半分」はキリスト教だと主張していた。彼にとってトルコ人は、キリスト教のアーリア的異端だった。したがってエラスムスの場合、トルコ人と戦うのではなく、むしろ彼らに改宗を勧める方が適当と考えられた。

十字軍の思想 (ちくま新書)

山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.83-84

 ウルバヌスは巧みだった。彼は演説で、「反キリストの時が近い」と明言した。これは、人々の心に深く響いた。なぜなら“終末”が訪れるはずの、キリストの死後千年である1033年がすでに過ぎていたからである。この年から、世界の終末が近いという思いがキリスト教徒たちを強く捉えていた。人類がエルサレムで世界の終末を迎えるとするなら、その地で最後の日を迎えたい、そして新しいエルサレムの民となりたい。人々はそう考えた。人々は群れをなして、エルサレムへの巡礼に向かった。この終末論は、「神の平和」思想と内面的に結びついていた。
 終末の日がいつか、占星術や聖書解釈学が必死に計算を続けていた。だがエルサレムへの巡礼は、実は救済にあずかる喜びよりも、むしろ恐怖をバネとしていた。罪あるままに世界の終末を迎えるならば、「火と硫黄の燃える池」で「第二の死」(「ヨハネの黙示録」第21章)を迎えるに違いない。それを避けるには贖罪が必要と考えられた。贖罪への強い思いが、人々をエルサレムへと向けた。エルサレムへの巡礼は、贖罪の重要な一形態だった。
 ウルバヌス2世の十字軍は、この巡礼という贖罪の旅に、さらに大きなものを付加した。参加を誓約することによって与えられる贖罪である。
 これは新しい贖罪の形式だった。

十字軍の思想 (ちくま新書)

山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.72-73

 ローマ教皇は、キリスト教世界の指導権を自己のもとに置こうとした。世界がキリスト教世界であるならば、その支配権は教皇のもとにある。教皇はそう主張した。その論理に従えば、国王や皇帝はそのローマ教会と教皇の守護役人でしかない。聖と俗の分離とは、ローマ教皇にとって、聖が俗を主導することを意味した。したがって、教皇は聖の論理のもとに俗の暴力を利用し、そのことによって自己の指導性、支配力を高めようとした。教皇が求めるかぎりにおいて、その暴力は聖戦だった。
 聖戦には、それだけの理由が必要である。キリスト教世界の指導者・支配者であることを自認し始めたローマ教皇にとって、何が最適の対象だろうか。それは、イスラム世界だった。強力な異教徒からキリスト教世界を守ること。異教徒の支配からキリスト教徒を解放すること――ローマ教皇が全キリスト教徒に呼びかけるのに、これほど明快な理由があるだろうか。
 事実、イスラム教徒と戦い、エルサレムを解放しようと最初に考えたのは、ウルバヌス2世ではなく、グレゴリウス7世だった。グレゴリウス7世は、「キリスト教世界の頂点」に立つことを望んだ。彼は先鋭な教会改革者として、ローマ教皇こそカトリック教会の創始者、十二使徒のかしらである聖ペテロの首位権にもとづく、全カトリック教会の最高権威であることを強調した。

十字軍の思想 (ちくま新書)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.169-170

 日露戦争が終わったあとの列強の対立の舞台はバルカンに移ってきた。1908年7月におこった青年トルコ革命の波及を恐れたオーストリア=ハンガリーは、同年10月、ついにボスニア=ヘルツェゴヴィナ二州を併合した。そのさいブルガリアを誘ってその完全独立を宣言させていた。そうしてセルビアを包囲する形をとったのだが、それはむしろセルビアの側に、狂信的ともいえる排外主義的ナショナリズムを盛り上げ、多くの秘密結社を生みだした。このときボスポラス・ダーダネルス海峡への進出承認と引き換えに二州併合を容認した形のロシアは、その願いを果たせず、不満を強め、セルビアとの結びつきを強めた。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.159-160

 1848年革命の挫折後、東欧の民族エリートは、その要求の実現を、列強の権力政治に便乗することによって果たそうとするようになった。
 バルカンで代表的なのは、クリミア戦争を利用してオスマン帝国からの独立を達成しようとしたルーマニアの例である。ルーマニア正教会の保護を口実にロシアがオスマン帝国と戦ったのがきっかけで始まった1853-56年のクリミア戦争ののち、ワラキア地方とモルドヴァ地方はフランスのナポレオン3世の支援を受けて自治公国となった。1861年に両公国が同一の君主を選んで合体したあとも、この「ドナウ二公国」は列強の影響を受け続けた。
 それでも、多くのバルカン諸民族においては、列強への期待よりもなお蜂起という道が考えられざるをえなかった。1865-67年には、セルビア公国が中心になって、ルーマニア、モンテネグロ、ギリシア、ブルガリアのあいだに、バルカン同盟が結ばれ、オスマン支配に対する一斉蜂起の計画がたてられるのだった。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.79-80

 ゲルマン民族の移動によって生じた空白は、東から移動してきた西スラヴによって埋められた。スラヴの西進の限界はだいたいエルベ川までと考えられ、ちなみにロストク、ドレスデン、ライプツィヒなどのドイツの地名は明らかにスラヴ語起源である。ところが10世紀になるとゲルマン民族が再びエルベ川の東に進出を始めた。それはドイツ人の東方植民の名で知られる大規模な移動の一環で、エルベ川の東に住んでいたスラヴ人諸部族はゲルマン化の波にのまれていった。
 そのなかで、現在のポーランドの西部、大ポーランド地方にいた西スラヴのポラーニ族がゲルマン化に抗して統一をはかった。それがポーランドの成立である。最初の王朝ピャスト朝のミシェコ1世は、国家形成のために同じスラヴのボヘミアの力を借り、966年にはボヘミアの聖職者の手により西方キリスト教の洗礼を受けた。このようなキリスト教の公的受容は、神聖ローマ帝国側からの異教徒討伐の口実を封じ、自領の支配の正当性を主張するためであった。しかもミシェコは最初からローマ教会に頼り、自国をローマ教皇の保護下に組み入れるといった手段をとり、神聖ローマ帝国にポーランドの存立を認めさせた。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.77-78

 キエフはドニエプル川に臨む丘の上にあり、地形的には森林地帯がステップに変わる境目にあたる。そのことはこの町がステップの遊牧民に対抗する橋頭堡の役割を負わされていたことを意味する。事実、ロシア国家にとって遊牧民との闘いは宿命ともいうべきもので、モンゴル軍の侵入で農耕民の敗北は決定的となったが、その後、近代の歴史は農耕民が遊牧民を押し戻していく過程であり、そこにロシア帝国の発展を重ね合わせることができるであろう。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

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