高坂正堯『文明が衰亡するとき』新潮選書 p.29

 そして、ローマは戦術を変えた。カンネの戦いの後ローマ軍の司令官となったファビアスは、ハンニバルという名将に対して決戦を挑むことを避け、カルタゴ軍につきまとってその弱い部分をたたくという遊撃戦をおこなったのである。この戦法は成功し、ファビアスはゲリラ戦の最初の実行者として後世にも名を残した。
 たとえばそれはフェビアン協会の語源となった。フェビアン協会は、言うまでもなく社会主義の協会であり、英国労働党の起源の一つである。フェビアン協会の創始者たちは資本主義に対して正面からこれを打倒しようという決戦を挑むことは馬鹿げている、と考えた。その代り、ファビアスがしたように、少しずつ相手を傷つけ、最後に資本主義に対する勝利を収めようというのが彼らの考えであった。

文明が衰亡するとき (新潮選書)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.100-101

 18世紀初頭のサンクト・ペテルブルク建都以前には、ロシアは西欧との貿易を、アルハンゲリスク経由でおこなっていた。ロシアの「西欧との窓」とはアルハンゲリスクであり、バルト海ではなく白海を通して海上貿易がおこなわれていた。したがってサンクト・ペテルブルクで貿易する船舶が増大するということは、ロシアの西欧との貿易がアルハンゲリスクからサンクト・ペテルブルクに重点を移したこと、換言すれば、白海ではなく、バルト海がロシアの「西欧との窓」になったことを意味する。しかも、それがバルト海貿易で最大の勢力を誇っていたオランダではなく、イングランドによってなされたことに、大きな特徴がある。
 アルハンゲリスクが「西欧との窓」だった時代には、既述のように、同港で使用される船舶は、圧倒的にオランダからの船舶が多かった。しかし1724年には、アルハンゲリスクを利用する船は23隻に過ぎないのに対し、サンクト・ペテルブルクを利用する船は130隻になり、圧倒的にサンクト・ペテルブルクのほうが多くなる。しかも1721~1730年には、オランダからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は266隻、サンクト・ペテルブルクからオランダに向かう船舶は350隻であるのに対し、この10年間にイングランドからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は284隻、サンクト・ペテルブルクからイングランドに向かう船舶は494隻となる。サンクト・ペテルブルク-イングランド間のほうが、サンクト・ペテルブルク-オランダ間より船舶数が多い。
 18世機のバルト海貿易において、ロシアの貿易額は大きく伸びた。しかもロシアは、バルト海で最大のシェアを占めていたオランダではなく、サンクト・ペテルブルクを通じたイングランドとの取引により急速に貿易量を増大させていったのである。それは、バルト海貿易全体にきわめて大きな変革をもたらした。ロシアは、オランダではなく、イギリスを通じて近代世界システムに組み込まれたのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ p.73

 1568年の八十年戦争(オランダ独立戦争)開始時にはオランダにおける武器産業は経済全体のごくわずかな役割しか果たしていなかったが、終了時の1648年には、無視しえないほど巨大なものとなっていた。オランダ共和国は、直接的にも間接的にも、武器貿易を支援した。最大の武器消費者は、オランダ東インド会社(VOC)であった。オランダでは武器産業が発達し、武器貿易商人は、スウェーデン、デンマーク、イングランド、フランス、ヴェネツィアに、場合によっては敵国のスペインにも武器を売った。オランダの武器製造産業は、急速に発展した。そのため、スウェーデン-オランダ間の貿易が増えた。1630年代には、オランダにとってスウェーデン産の銅は、大砲の製造に欠かせないものとなり、鉄製銃器は、イングランドではなくスウェーデンから輸入されるようになった。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ p.59

 この当時のヨーロッパ諸国のなかには、このようなオランダの経済力低下を目指し、保護貿易政策をとった国もある。それを、重商主義政策と言い換えることもできる。近世ヨーロッパにおける重商主義とは、オランダの圧倒的な海運力に対し、いくつかの国が保護貿易をとったことを意味する。このような側面から、重商主義をとらえ直す必要があるだろう。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.47-48

 地中海諸国から北大西洋諸国へとヨーロッパ経済の中心が移動したといわれ、それが定説となっている。さらに前者は地中海経済を、後者は大西洋経済を開発したことによって可能となったとされてきた。しかし現実には、地中海から大西洋へとヨーロッパ経済の中心が直接移動したのではなく、地中海からバルト海をへて、大西洋へと移動したのである。地中海においてはイタリアが、大西洋においては――より正確には北大西洋貿易においては――イギリスが、バルト海においてはオランダが、貿易の中心になった。
 とくに穀物貿易に貸しては、16世紀後半から17世紀前半にかけては、アムステルダムが他を圧倒する商品集散地(entrepot)であった。バルト海地方から輸出される穀物は、ほとんどがまずアムステルダムに輸送されていたのである。
 1545年の時点では、アントウェルペンのほうがアムステルダムよりも(商品)輸出額が多かった。しかし、1550年代にアムステルダムがバルト海地方から穀物を大量に輸入するようになり、アムステルダムが急激に台頭した。
 アントウェルペンもバルト海貿易に参画していたが、アムステルダムほどには、この貿易から受けるインパクトは大きくなかった。アントウェルペンの貿易相手地域は、アムステルダムよりも少なかった。アントウェルペンの取引相手地域としては、ドイツの後背地、中欧、イングランド、イベリア半島などであった。そして低地地方の物産のみならず、イングランド産毛織物、ポルトガルからの香料などの商品が取引された。
 それとは対照的に、1580年代のアムステルダムの輸出入額は、表2に示されているように、バルト海地方の比率がきわめて高い。アムステルダムとアントウェルペンの貿易構造は大きく違っていた。アムステルダムの貿易構造は、たんにアントウェルペンの後継者にとどまらないほど異なっていた。アムステルダムの台頭とバルト海貿易のあいだには、切っても切れない関係があった。オランダのヘゲモニーないし「黄金時代」は、いわばこうした状況のもとで成立したのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

加藤隆『歴史の中の『新約聖書』 』ちくま新書 pp.35-37

紀元前8世紀後半に、メソポタミアでアッシリアの勢力が強大になり、北王国が滅ぼされてしまいます。
 この時に南王国は、外交的にうまく動いて、アッシリアの属国のような地位になったとはいえ、とにかくも独立を保ちます。南北に分かれていた王国の一方だけが滅んで、他方が存続したということが重要です。
 国が滅ぶということは、その国を守るべき神が動かなかったことを意味します。このような神は、頼りにならない神、ダメな神、として見捨てられるのが古代の常識です。
 南北の両方が滅ぼされていれば、ヤーヴェ崇拝は終わってしまって、歴史の闇の中に消えていったと思われます。しかしこの時に、南王国が残っていました。南王国は、北王国よりもヤーヴェ的伝統が強いところでした。南王国のダビデ王朝の王は、「神(ヤーヴェ)の子」とされていました。土地は、神が与えた土地でした。エルサレムにある神殿は、「神の家」「神の住むところ」とされていました。
 ユダヤ人たちの中には、ヤーヴェを見限った者も少なくなかったかもしれませんが、そのためにかえって、南王国には「ヤーヴェ主義」の傾向が強い者たちばかりが残ったということも考えねばならないかもしれません。
 いずれにしても南王国では、ヤーヴェ崇拝を簡単に捨てられませんでした。しかし、北王国という一つの国が滅んだということは、ごまかしようのない大きな事実です。「頼りにならない神」ということになったヤーヴェ、こんな神は崇拝できないというのが常識的な判断です。しかしヤーヴェ崇拝は捨てられない。
 ここで神学的に大きな展開が生じました。簡単に言うならば、ヤーヴェを「ダメな神」と考えないで済ませるために、「民」の側が「ダメ」なのだと考えることにしたのです。
 もう少し言うならば、「契約」の考え方を神と民の関係にあてはめて、「民」が「罪」の状態にあると考えることによって、神の「義」を確保する、ということが行われました。

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.101-102

 「人民のなかへ」の運動は失敗した。農民は立ち上がらなかった。学生たちはこの大実験からまなぶべく反省をはじめた。いったい何だって農村に大挙してでかけたのか。パリ・コミューンがひとつのショックだったことはまちがいない。無名の大衆が国家権力に反抗して立ち上がり、短い期間ではあったが、権力をにぎった。
 ヨーロッパでできたことがロシアでやれぬことはない。パリ・コミューンをやったのは社会主義者だ。社会主義は19世紀の福音だ。ヨーロッパの社会主義の軍隊のプロレタリアは工場労働者だ。ロシアのプロレタリアは誰か。それは農民だ。ロシアの社会主義は農民によって実現されるだろう。学生らは、福音の使徒として農村に行ったのだった。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.78-79

 ピョートル大帝がデンマークから帰化したヴィーツス・ベーリングに命じて北太平洋を探検させて以来、ロシアの毛皮商がアラスカに住みついていた。パウル帝がロシア・アメリカ商会にアラスカからカリフォルニアに至る海岸の狩猟権を与えていたが、乱獲でラッコが激減し会社の経営がうまくいかなくなった。クリミア戦争で財政難に陥ったロシア政府は、アラスカをアメリカ合衆国に売却することにした。その価格七〇〇万ドルが高いというのでアメリカの国会では大問題になった。ロシア政府はアメリカの新聞を買収して、けっして高くないといわせて、やっと1867年に商談を成立させた。
 ロシア人にアラスカを惜しがらせなかったのは、他方でどんどん領土がふえていたためである。ながく平定できなかったコーカサスを完全に領有したのは1864年であった。翌年きずかれた基地グラスノヴォットスクからコーカサス横断鉄道が敷設されてペルシアに向かった。そしてペルシアから多くの利権を得た。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.13-14

 ゲルツェンらの世代にとって、デカブリスト事件は大きいショックだった。貴族が皇帝に反乱をおこした。そして刑罰からは除外されているはずの貴族が五人も絞首刑になったのだ。いったいデカブリスト事件とはなんだったのか。
1812年、モスクワに侵入してきたナポレオン軍の軍勢を焦土戦術によって逆転させたロシア軍は、追撃してヨーロッパにいたった。将校であった貴族青年は、自分の目で先制から解放された文明をみた。フランス語もドイツ語も自由にしゃべれる貴族は、町のなかで市民の自由を知った。ロシアは何というおくれた国か。このままでは、国の独立もやがてあやしくなる。専制政治と農奴制は廃止せねばならぬ。
戦争がおわって帰国した貴族青年たちは、改革について相談しあった。1816年、「救済同盟」という秘密結社がペテルブルクにつくられた。中心になったのは、ニキータ・ムラヴィヨフ、アレクサンドル・ムラヴィヨフ、セルゲイ・トルベツコイ公爵、ムラヴィヨフ・アポストル兄弟などであった。いずれも近衛師団の将校か名門貴族である。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.44-45

 人参や貂皮の国際市場の中心は遼東地方であったが、当時、この地方を含む現在の中国東北一帯におもに住んでいたのは、女真と呼ばれる民族であった。すなわち、12世紀初めに金を建国し、中国北方を支配した人びとである。13世紀にモンゴルに滅ぼされて以来、東北の女真族も元の支配下にはいっていたが、14世紀に明朝が元朝を逐って東北を平定すると、女真の首長たちはつぎつぎに明に来朝した。明は彼らに武官の地位を与えるとともに、それぞれの首長に朝貢貿易をおこなう許可証を与えた。明との交易は彼らに大きな利益をもたらし、貿易の利権をめぐる激しい争奪戦のなかで、16世紀には貿易を独占する有力者がのしあがってくる。
 その一人が、のちに女真族を統一するヌルハチである。16世紀の中国東南沿岸が、中国人・日本人・ポルトガル人などのいりまじる荒々しい市場であったのと同様、同時期の遼東も、女真人・漢人・モンゴル人・朝鮮人などが混在する商業=軍事勢力の闘争場であった。1570年以来三〇年近くのあいだ、遼東で勢力をふるったのは、明の軍閥李成梁であったが、彼の庇護のもと、ヌルハチは急速に頭角をあらわし、女真諸部族の統一を進めて、人参や貂皮の交易を独占した。当時の女真経済は、農業とともに狩猟採集に依存していたといわれるが、狩猟採集といっても獣を狩ってその肉を食べたり木の実をとって食べたりする素朴な自給自足経済ではなく、国際交易と深く結びついた貂や人参など特産品の狩猟採集であったことに注目する必要があろう。諸民族のいりまじる市場に若いころから出入していたヌルハチは、有能な武将であると同時にまた「商業資本家」でもあったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.39-40

 16世紀半ばの倭寇の被害、および明政府からみればもっとも侵略的な倭寇ともみえた同世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略など、度重なる事件によって日本にたいする強い不信感をもっていた明政府は、日本と中国とのあいだの直接的な貿易を禁止する政策を取り続けた。中国の生糸と日本の銀という、当時の東アジアでもっとも利益のあがる貿易は、同時にもっとも政治的な障害の大きな貿易でもあったわけである。もっとも官憲の禁止をかいくぐって日本に来航する中国船は跡を絶たなかった。
 そのなかで、日中双方に貿易拠点を確保したポルトガルがまず、16世紀後半に中国貿易を掌握したことはさきにみた。しかし、16世紀の末には、ポルトガルの優位はしだいにゆらいでくる。新興勢力オランダや日本の朱印船といいたライバルの進出に加えて、ポルトガルの貿易と結びついた宣教師の布教活動にたいする日本政府の弾圧が始まったからである。ポルトガル勢力の動揺にともなって脚光を浴びるようになったのが台湾である。もともと台湾には現在「高山族」などと呼ばれている先住民が住んでいたが、中国本土とはあまり関係がなく、漁船がたちよる程度であった。しかし、中国本土に拠点をもたないオランダや日本、スペインなどにとって、台湾は中国帆船との出会い貿易の絶好の拠点とみなされた。オランダは、スペインや日本と競合しつつ台湾に進出し、1624年、台湾南部の安平にゼーランディア城を築いた。
 当時中国の東南沿岸では多数の武装海商集団が活動していたが、生糸をはじめとする中国物産を供給してくれるパートナーとしてオランダが選んだのは、鄭芝龍という人物であった。鄭芝龍は日本の平戸に住んでいたときに日本人女性田川マツとのあいだに子どもを設けたが、これが清朝の中国占領後に最大の反清勢力を率いることとなる国姓爺こと鄭成功である。鄭芝龍は1630年代半ばに中国東南沿岸の海上支配をかため、鄭芝龍とオランダの連携のもとでポルトガル抜きの日中貿易が順調に動きはじめた。徳川幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁止し、オランダ船と中国船のみの来航を許した背景には、こうした日中貿易の覇権の交替があったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット p.12

 1550年代は、そうした倭寇の活動が最高潮に達した時期であった。同時に北方でもモンゴルの活動が活発化し、50年にはアルタン率いるモンゴル軍が長城をこえて深く侵入し、八日間にわたり北京城を包囲した。「北虜南倭」と連称されるモンゴルと倭寇の危機がこの時期同時に高まったのは偶然ではない。北方の軍事的な緊張が高まるほど軍事費は増大して中国の銀需要は強くなり銀需要が強くなるほど日本銀流入の圧力は高まる。このように「北虜」と「南倭」とは、遠く離れた中国の北と南で、銀を媒介に深い関係をもっていたのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

川口マーン惠美『ベルリン物語』平凡社新書 pp.45-46

 イギリスの産業革命から半世紀以上も出遅れ、ようやく1830年代の終わりに始まったドイツの工業化が、なぜこれほど急速に進んだかというと、いくつかの理由が挙げられる。つまり、遅れていたからこそ、新しく建設する工場に最先端の技術を導入することができ、生産効率が高かったこと、また、遅れを取り戻そうとした政府が、積極的に資金を投資したことなどである。ドイツ産業の強みは、石炭、製鉄、機械にあった。そして、鉄道の大々的な敷設が、それらの産業の発達を強力にバックアップしていた。
 ドイツに初めて鉄道が通ったのは1835年のことで、ニュールンベルクからフュルトまでのわずか6キロだった。同じ頃、イギリスでは544キロの鉄道網が整備されていた。しかし、このあとのドイツの巻き返しは早い。三年後には、ベルリン-ポツダム間、その翌年にはライプツィヒ-ドレスデン間が開通し、鉄道開通のわずか五年後の1840年には、469キロになっていた。これによって石炭など資源の輸送が合理化され、また、農産物や工業製品の輸送も安価で迅速になり、流通は格段の進歩を見せた。
 ただ、急速な工業化と連動して、様々な社会問題が発生した。都市部に労働者が集中したため、住宅不足が起こり、労働者の生活環境は甚だしく悪化した。また、病気になったり、年老いて働けなくなれば、労働者の生活はその日から困窮した。長時間労働や危険労働、低賃金、一方的な解雇、あるいは児童就労といった状況を前に、労働者は自己を守る術を一切持たなかった。資本家は、ますます力を蓄え、有利な立場から労働者を搾取したため、ドイツ帝国が豊かになっていくのに反比例するように、労働者階級の貧困化が進んだ。このような状況から、必然的に労働運動が萌芽した。
 労働者の間に少しずつ権利意識が芽生え、労働運動が起こり始めたのは、1860年代だ。労働運動の牙城はベルリンである。1875年には、社会民主党(SPD)の前身である社会主義労働者党が結成された。そして、1878年10月に社会主義運動を弾圧する法律が制定された。

ベルリン物語 都市の記憶をたどる (平凡社新書)

杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』集英社新書 pp.158-159

 ここで、ルイジアナの歴史を少し振り返ってみよう。
17世紀後半、この地を最初に探検したフランス人一行が、当時のフランス王ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と命名し、それ以後、フランスが領有することになった。そして、「フレンチ・アンド・インディアン戦争」でフランスがイギリスに敗北すると、その領有権はスペインに移った。
 しかしルイジアナの統治は、スペインの財政を圧迫し、さらにこの地に移住してくるアメリカ人との衝突の可能性も高くなったために、スペインは1800年、秘密裏にフランスにルイジアナを返却していたのである。
 その一方でこの時期、アメリカの大統領トーマス・ジェファーソンは、メキシコ湾とミシシッピー川の接点に位置する交通の要衝だったニューオリンズという小都市を、アメリカに譲ってほしいとフランスに申し込んだ。
 これに対してフランスからは、ニューオリンズだけでなく、広大なルイジアナの土地すべてを購入してほしいという意外な回答が返ってきたのだ。
 当時のフランスは、カリブ海のハイチにおける黒人奴隷反乱の鎮圧に失敗し、さらにヨーロッパにあっては、イギリス、ロシア、プロイセンなどとの間で、ヨーロッパの支配をめぐって「ナポレオン戦争」(1799~1815年)を繰り広げていた。そのため、喫緊に軍事費が必要で、安値でもルイジアナを処分できればありがたいと考えていたのである。

知っておきたいアメリカ意外史 (集英社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.73-74

 1701年、ウィリアム3世は王位継承法により、イングランド王位にカトリック教徒は即けず、また王族もカトリック教徒との結婚を禁ずると制定した(この法律は21世紀の現在でも有効である)。この翌年、ウィリアムは落馬事故が原因で急死し、義理の妹アン女王(在位1702~14年)が即位した。
 アンの後継者としてハノーファー選帝侯を推す方針には根強い反対も見られた。特に、イングランドと同君連合で結ばれるスコットランドでは、ブリテン島に一度として足を踏み入れたことのないドイツのお殿様より、ジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを改宗させたほうがまし、との意見も出されていた。
 ここでせっかく百年も続いてきた同君連合をお終いにするのは危険である。そう感じたイングランドの政治家たちは、スコットランドに働きかけて、国同士の正式な「合同」にしたいと持ちかけた。イングランドへの従属に批判的な声も見られたが、スコットランドの大勢は合同に傾いていた。ここに1707年5月1日をもって、グレート・ブリテン連合王国が成立した。いわゆる「イギリス」の誕生である。
 その7年後の8月1日、アン女王は世継ぎを残さずに亡くなった。訃報はハノーファーにも届けられ、選帝侯ゲオルグがイギリス国王ジョージ1世(在位1714~27年。ジョージはゲオルグの英語読み)に即位することとなった。ハノーヴァー王朝(1714~1901年、ハノーヴァーはハノーファーの英語読み)の成立である。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.69-70

 王政復古とともにイングランド国教会も正式に復活し、チャールズが国王を兼ねるスコットランドは長老派プロテスタントが相変わらず主流を占めていた。そこにカトリックの国王が戻ってくるとは……。もちろん、チャールズはそのことは伏せていた。そんなことがばれたら、また大陸に追い返されてしまう。彼がカトリックであることを公言するのは、まさに死の床での「告解(罪の告白)」においてであった。
 ところが、チャールズより三歳年下の弟ジェームズ(ヨーク公爵)は、カトリック教徒であることを公然と認めていた。彼は、海軍長官として、北アメリカ植民地でのオランダとの戦争にも功績を残し、ニューネーデルラントと呼ばれていた領土は「ニューヨーク植民地」と彼の爵位名から名称を改められ、そのまま彼に下賜された領土でもあった。しかしカトリックであることが判明し、公職を解かれてしまった。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

小林章夫『コーヒー・ハウス』講談社学術文庫 pp.86-87

 宗教戦争に明け暮れ、ペストや大火の被害をまともにうけた17世紀が終りを迎え、やがて18世紀へ入ってゆくと、ヨーロッパ全体が明るくなっていったような印象を受ける。古気候学という学問が進むにつれて、16世紀後半から17世紀にかけての時代が、これまでにないほどの寒さに襲われ、降水量が多かったため、穀物の生産が最悪のレヴェルにまで落ち込んでいたことが明らかになった。しかし18世紀が近づいた頃から天候も回復し、穀物生産も向上して、人口が増えてゆく。森の樹木が大々的に伐採されて湿度が減り、爽やかな明るい時代がやってくるのである(もちろん18世紀にも天候の悪い時期があり、1709年から10年、1713年から14年、1727年から28年などは天候も悪く、不作であった)。そして17世紀前半のような宗教戦争の嵐が静まって、理性を基調とした精神風土が展開される。

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 p.128

 梅毒の広がった16世紀に、キリスト教世界では宗教改革が起こった。マルティン・ルター(1483~1546)は、神の恩寵は人々が神を信じ、質素で誠実に生きれば与えられると説いた。免罪符を非難し、一夫一婦制の厳守から売春に反対した。
 清教徒(ピューリタン)は、さらに厳しく性行動を慎んだ。梅毒の蔓延を防ぐには売春を抑制し、夫婦制度を強化して、人々の中に純潔教育を施すことが必要とされたのだった。イギリスでピューリタンが発祥したのは、ヨーロッパでの梅毒蔓延の結果であるといわれる(W・H・マクニール『疫病と世界史』 佐々木昭夫訳 新潮社)。
 やがてピューリタンは、アメリカへの植民に船出することになる。コロンブスの発見以来、ヨーロッパ人は搾取と殺戮の果てに黄金と香辛料を新大陸から持ち帰った。しかし、その報いに彼らの血流にのって梅毒のバクテリア、スピロヘータがヨーロッパへめぐっていったのであった。そして、その恐怖から生まれたピューリタンが再度船に乗って、スピロヘータの故国に移住していく。病原体とともに歴史もめぐっていく。

感染症は世界史を動かす (ちくま新書)

岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 pp.94-95

 ペストは都市部だけではなく、農村にも打撃を加えていた。高騰した賃金目当てに農民が都市に流入したため、農村部でも人手不足が深刻となった。中世の封建制によって統制されていた耕地は、ただの耕地ではなく、ほとんどは荘園と呼ばれるものであった。中世の農民は、一部の自作農と多くの農奴で構成されている。封建領主は土地には執着はあっても、そこで働く農民は農奴であって、土地の付属品という認識しかなかった。
 農民は夜明けから日没まで、星から星までの間を懸命に働き、そのほとんどの収穫物を領主に納めていた。しかし疫病の後、深刻な農村での労働不足が生じたとき、領主は農業生産者としての農民の役割を認めざるえなくなった。小作制が採用されるようになる。それが広まって、農業労働が対価として賃金で支払われるようになった。これは事実上農奴制度の崩壊そのものであり、荘園制度の崩壊と、封建制の没落を意味する。
 労働問題の先駆的な国家であるイギリスでは時を同じくして、労働者問題に対する各種の画期的な法律が施行され始める。1349年の「労働者規制法」、1351年には「労働者勅令」が、農業労働者への措置として立法されている。
 農業労働の人口減はヨーロッパの農業地図を変えていくことになった。耕作にあまり人手のかからない葡萄栽培が広がり、作業効率のよい牧畜がさらに増えることになった。葡萄栽培はワイン生産の増大につながり、牧畜は原料としての羊毛生産、さらに羊毛製品の生産までうながすことになる。イングランドの羊毛製品は以後、産業革命を経て伝統的な産業となっていく。

感染症は世界史を動かす (ちくま新書)

岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 pp.56-58

 1333年の中国、元の最後の皇帝、順帝の時代に大変な長雨が続き、黄河が氾濫を起こした。水は地上三メートルにも達し、人も家畜も水没した。一方、別な地域では旱魃に見舞われていた。
 そこに蝗害が発生して、大飢饉となった。空が真っ黒になり太陽の光も届かなくなるようなトビバッタの大群がやってきたのだった。トビバッタの大群は農作物を一掃し、残ったのは田畑一面の昆虫の死骸だけだった。この時、食べ物のなくなったアジアから、たくさんのクマネズミがヨーロッパへ移動していったともいわれている。そしてこの天変地異のあとを襲ったのが、疫病の発生だった。
 このような自然災害の続くなかで、政府の無策に対して、大規模な農民の反乱「紅巾の乱」が起こった。後に元を倒し、明の太祖となった洪武帝は、このとき紅巾軍の兵士だった。旱害に見舞われ、蝗がやって来て、飢饉の中で家族は疫病で倒れ、生き残ったのは十七歳の彼だけだったという。
 一方、ヨーロッパは、気候が寒冷期に移行しつつあった。気候の変動期には旱魃や洪水、暖冬や寒冬というように極端な状態がくり返されるが、天候不順のうちにヨーロッパに小氷期がやってきたのである。
 14世紀の初めは、雨の冷たい夏が続き、農作物は不作続きであった。当然のように食糧は不足し、やがて飢饉はヨーロッパの北部に広まっていく。1315年から17年にかけて、北部ヨーロッパでは飢饉がますます酷くなり、農民はイラクサ、アシの葉、イバラなどの草の葉まで食べて飢えをしのいだ。この飢饉の波は二十年をかけて南下し、温暖な南の地方にも浸透していく。
 農村では餓死者が相次ぎ、農民の離村と、それにともなう廃村もあった。慢性的食糧不足から来る劣悪な栄養状態のなかで人口は停滞し、さらには減少していく。そのうえ、アジアやイタリアを地震が襲った。イタリアでは地震の揺れで教会の鐘が鳴り出して人々に恐怖を与え、さらに津波が押し寄せた。
 自然災害、天候不順による凶作、飢饉に加え、この時期のヨーロッパ西部は百年戦争の戦禍にも巻き込まれている。このような極限状態を背景にして、黒死病はやって来たのだった。

感染症は世界史を動かす (ちくま新書)

臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 pp.199-201

 ドイツ革命が海軍から始まったのは、まったく物の道理に従ったというべきである。海軍は戦争全体を通してすこぶる暇であった。余暇はあらゆる創造的解放的行為の源泉である。戦争初期の海戦の後まったくの膠着状態が続き、クックスハーフェン、ヴィルヘルムスハーフェン、そしてキール軍港の海軍兵士はなす術もなく毎日を送っていた。ジャガイモでも栽培するか、サッカーでもやっていれば良かったのかも知れない。しかし、どういうわけか、有効な余暇利用はなされなかった。食事も悪ければ、コーヒーもない。カラ元気も出ない。持て余した暇を革命的行動に直結させないためには、知的な会話で暇をつぶすのが一番である。ところが致命的なことに、海軍の知性的部分はU・ボート作戦に駆り出されており、一般兵士が毎日まみえる上官は早い話、知性を欠いた退屈な上官ばかりだったのである。一つ所に掻き集められ、毎日、退屈な上司と知性を欠いた会話を重ねながら、暇をつぶしていかなければならないほど不愉快なことはない。その挙げ句に、戦争もおしまいになった時点で出撃命令が出され、ヴィルヘルムスハーフェンを出航した水兵はついに堪忍袋の緒を切らし、反乱を起こしたのである。反乱兵士は逮捕され、キール軍港に送られることになった。そのキール軍港で水兵たちは「レーテ(協議会)」を結成し、ドイツ革命の火蓋を切ったのである。戦前、皇帝ヴィルヘルム2世はプロイセンの年来の宿願である海外雄飛を夢見て、バルト海と北海を直結する運河を完成させ、「ドイツの未来は海上にあり」と豪語していた。ドイツの未来が海上にあるならば、皇帝の未来も海上にあるはずであった。キールに燃え上がった火の手がたちまち運河を経てヴィルヘルムスハーフェンに飛び火したのが運の尽き。兵士の反乱は全海軍に広がり、ホーエンツォレルン家は海の藻屑と消えたのである。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

中野香織『モードとエロスと資本主義』集英社新書 pp.165-166

 ファッション史には何度か、短期間に美意識や価値が激変する、スタイルの「シフト(移行)」が見られるのだが、2000年代はまさしく、その時期の一つとして数えることができる。
 過去の代表的な移行期には、たとえば18世紀末から19世紀初頭にかけて、すなわちロココから新古典主義へと移る時代がある。この時代に、フランスの宮廷服が大きな変化を遂げている。ロココ時代には、女性は髪を高く結い上げたその上にさらに白い髪粉をかけ、胴体はコルセットで締め上げ、腰はパニエで巨大に膨張させていた。男性もかつらの上から髪粉をかけ、刺繍や金糸銀糸をたっぷりとほどこしたジュストコール(上着)にベスト、ニーブリーチズ(膝丈ズボン)で装い、バックル飾りのついたヒール靴をはいて、膝下の脚線美を誇っていた。
 髪粉の原料は小麦粉であった。労働者階級が食べるパンがないというのに、貴族はその原料を装飾のために使っていたのである。そんな「粉飾」もまた労働者の怒りをあおる原因の一つとなり、フランス革命が起こる。「サン・キュロット(半ズボンをはかない)」と称する革命派は、半ズボンに象徴される貴族を次々に粛清していき、革命後、宮廷服は10年前には想像できなかったスタイルに変わっている。
 革命後の社会の理想を古典古代のギリシア・ローマ時代に求めよう、という時代のムードに合わせるかのように、女性ファッションは古代ギリシア風の白いシュミーズドレスに変わる。パニエなどの装置も刺繍などの飾りもない、シンプルなドレスで、髪も自然に下ろしたナチュラルスタイルになった。
 男性服は、英国のカントリージェントルマンの乗馬服に範を求めた服になり、脚線美誇示の長い伝統が失われ、次第にトラウザーズ(長ズボン)が主流になっていく。革命前と革命後のほんの10年間でのあまりの変わりようをからかう、カリカチュアまで存在する。

モードとエロスと資本 (集英社新書)

臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 p.125

1761年から1788年にかけて一ポンドのパンの値段は、一スーから七スーに急上昇していた。パンの価格を穀物輸入によって維持するような芸当ができる国は、まだ大英帝国に限られていた。商品価格が自分で勝手に上昇するわけがない。市場のメカニズムに疎い農民にとっては、パンの価格上昇の裏に誰か悪意ある人間の手が潜んでいるはずであった。農民暴動が頻発する。1787年、フランス全土は不作に襲われた。フランス人口の85%が農民の時代である。その農業が打撃を受けたのである。1788年は完全な不作。そしてこの年の冬、一切にとどめを刺すかのように厳冬が続く。
 この時代の冬というものがどのようなものであるかは、ゴヤの『冬』(1787年)でおおよその察しはつく。しかし1788年から89年にかけての冬は桁が違った。ヴェネチアの潟すらも全面凍結し、人々はその上を歩いて渡った。ヨーロッパ全体が凍結したのである。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 pp.64-65

 やがて商業資本と産業資本との矛盾が激化する。当時、貿易の支払いは銀で行なわれており、銀を支配するものが世界貿易を手中に収める仕組みになっていた。圧倒的な優位に立つのは、世界の銀生産量の90%を占めるメキシコ、ペルーを植民地として持つスペインであった。そのスペインの覇権も長くは続かない。メキシコ、ペルーはもとより、南北アメリカの植民地が銀と交換に欲していたのは毛織物であり、したがって強大な毛織物産業を有する国こそが世界貿易を支配する仕組みになってくるのである。羊が決め手であった。羊のいる風景、それはもはや牧歌ではなく、「羊が人を殺す」光景、スケープ・ゴートたる農民が「囲い込み」によって土地を追われ、賃金労働者となり、毛織物工業の機械化とともに始まる産業革命の幕開きである。
 商業資本は国内の毛織物工業の育成を図らねばならない。とはいえ、商業資本家には価格格差が生命である。製品の価格は最低限に押さえねばならない。これは産業資本家には不満である。17世紀のイギリスは、産業資本が商業資本に対して闘争を挑み、優位を獲得するに至る時代であった。産業資本が、王権と深く結びついた巨大独占商業資本に対して起こした闘争の特殊な性格が、ロンドンのコーヒー・ハウスの特殊な性格を説明するのである。
 王権と巨大商業資本が従来の「公の世界」を占有していたのに対し、産業資本家は「民間人」であり、公権力の行使に参与を許されない人間、その意味では私人であった。つまりは「いまだゼロ」であるところの第三階級である。その彼らが王権と商業資本に対して闘争を展開し、産業資本の利益を追求するためには、従来の公の世界とは違う「公的世界」に訴える他なかった。いわば中世的な「公衆浴場」のぬるま湯に浸っていた公衆が、産業資本主義のイデオローグたちによって湯舟からたたき出され、王や政府の「公権力」に対抗する近代的権力ファクターとして動員されるのである。しかし動員しようにも、イギリスはまだ無い無い尽くしである。新聞、ラジオ、テレビ、ダイレクト・メール、電話。なにもない。商業資本と産業資本のイデオロギー的対決はパンフレットと口コミを使って、この新たな権力ファクターとなりつつある、判断し批判する公衆を、いかに自己の側に引き入れるかにかかっていた。ちょうどその時、新種の公共的制度、コーヒー・ハウスが生まれていたのである。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 pp.104-105

 一口に「プロイセン」というが、この国も諸領邦の連合体である。中心はエルベ川とオーダー川の間に発展したブランデンブルク辺境伯国=選帝侯国(首都ベルリン)、これと、はるか北東のバルト海沿いのプロイセン公国(1701年以降王国。首都ケーニヒスベルク)が結びついたもので、「ブランデンブルク=プロイセン」と言う方が国の実態に即している。なおこの「プロイセン」という国は、東方植民時代につくられたドイツ騎士団国が宗教改革を行って世俗のプロイセン公国になったもので、その際、最後の騎士団長で最初のプロイセン公になった人が、15世紀以来ブランデンブルク選帝侯であったホーエンツォレルン家の親族であったところから、17世紀はじめにプロイセンの方の家が断絶したとき、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねるという形で結びついたという、かなり複雑ないきさつで一緒になった国である。
 なおホーエンツォレルン家は西方ライン川流域にも所領をもっていたが、この西の所領とブランデンブルクとプロイセンの三つが地理的にも離れている(西の所領との間にハノーファーなどがはさまり、プロイセンとの間にポーランドがはさまる)。だから東西で戦争に巻き込まれる危険にさらされるとともに、この国が地理的に「一つの国」になるには、どうしても間にはさまる国を併合しなければならない。そんな地政的宿命を負った国であった。スペイン継承戦争に際しオーストリア側に立ったことから、神聖ローマ帝国の域外にあった東方のプロイセンに関して特別に王号を許され、後には国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようにもなるが(国全体の呼称と区別するため、以後旧プロイセンは「東プロイセン」と呼ぶことにする)、国が基本的にバラバラであることには変わりはない。だからこそまた絶対主義確立に他国にも増して格別の努力が必要だったのである。

ドイツ史10講 (岩波新書)

坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 pp.97-98

 しかし反面ドイツの復興は、他国にはないハンディキャップを負っていた。経済的にはヨーロッパの経済活動の中心軸が、「地中海→アルプス越え」のルートから大西洋沿岸に移ってしまったこと。かつてヨーロッパ経済の中枢地域に属していたドイツは、前章で述べたように、ウェストファリア条約で海への出口も外国に制せられ、「大西洋世界の後背地」(ホルボーン)になってしまったのである。かつてヨーロッパの富を集積した地中海は「貧窮しよどんだ入江」(ホブズボーム)になる。そして、以前はドイツの海であったバルト海でも、スウェーデン、そしてロシアといった新興の強国の前にドイツの影はうすくなり、ハンザ同盟も17世紀末には姿を消してしまう。
 他方政治的に見ると、西欧諸国が17世紀後半以降、おおむね国内での戦火を免れて新たな発展に向かい得たのに対し、ドイツは国土の復興に専念する暇もなく外国からの侵攻に曝され続けたのであった。東からはオスマン帝国がハンガリーを制圧してさらにウィーンを脅かし(1683年の「ウィーン攻囲」)、西からはフランスが侵攻してライン川沿岸で徹底的な破壊作戦を展開した(1688-97年の「プファルツ継承戦争」とその間の「プファルツの焦土化」)。ドイツが大きな戦争から解放されたのは、東方では1699年のカルロヴィッツ講和条約で「トルコの危険」が去り、西ではスペイン継承戦争を終わらせた1714年のラシュタットの講和条約以後のことなのだ。ドイツの国力の本格的回復は18世紀に持ち越された。その回復・復興の課題を背負ったのが政治体制としての「絶対主義」と、その経済政策としての「重商主義」なのである。

ドイツ史10講 (岩波新書)

江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 p.74

 くり返すようだが、1515年の皇帝とハンガリー王によるウィーン会議で二重結婚が約された時には、ハプスブルク家にハンガリー王冠が転がりこむ可能性はほとんどなかったのである。その道が開けたのも、偶然の賜物というしかない。華燭の典からほぼ10年後の1526年、当年20歳の若くすずやかな目もとのハンガリー王ラヨシュは、国境を侵して侵攻してきたオスマントルコ軍を撃退するべく、勇姿を馬上に、南の戦場へと馳せた。しかし戦なれのしていない彼はモハッチの野で大敗を喫し、将来を嘱望されながらも、空しくあたら生命を失った。
 ラヨシュ王の妃はハプスブルク家の王女マリアであり、また彼女の兄フェルディナントは故王の妹アンナの夫でもあったから、ハンガリー王冠がハプスブルクに帰属するのは当然のことだった。また古来の慣例上、ボヘミア(ベーメン)王はハンガリー王が兼ねていたために、フェルディナントはまもなく両国の王位に即くこととなった。

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 pp.46-47

 ブルゴーニュ公国は、故シャルル公の妃がイギリス王家の出身であったこともあり、また英国が羊毛の輸出入国でもあったから、この国とは気心が知れた仲といってもよく、両国間には良好な関係が保たれていた。ところがフランスとは事あるごとに対立してきた。そしてこの両者の抗争は、そのままマクシミリアンに受けつがれた。約4世紀にわたるハプスブルク家対フランス王家(ヴァロワ朝・ブルボン朝)との壮絶な覇権争いは、これをもって濫觴とする。18世紀半ばにマリー・アントワネットがルイ16世に嫁するまで、延々400年近くの間、互いに相手を打倒しようと肝胆を砕く。

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 p.177

 19世紀に始まった工業化でもフランスはドイツに遅れをとった。フランスは、イギリスやドイツのような急テンポの産業革命を経験しなかったが、これは担い手となるべきプロテスタントを欠いたことがその一因であった(たとえばフランス人新教徒の技術者デニ・パパンは、亡命先のドイツで蒸気ピストンを考案した)。一方、統一後のドイツの経済発展はめざましかった。人口の都市集中とあいまって、ドイツの工業化はフランスよりも急激な勢いで進んだ。1875年ドイツでは、人口の六割は農村居住者であったが、早くもその8年後には都市生活者が農村を上回った。だが農業大国のフランスでは、都市人口が農村人口を超えたのは、ようやく1931年になってからのことであった。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 pp.38-39

 三十年戦争は、第二次世界大戦前ヨーロッパで最大規模の戦争ともいわれるが、ことに上ライン地方の惨禍は想像を絶した。多くの町村が何度も戦火によっては解され、人口は8割近く減少した。戦後1648年のウェストファリア条約で、リシュリューの目的はみごとに達成されることになる。フランスはドイツの分裂を決定的なものとし、ハプスブルク家に致命的な打撃を与えた。三百余りのドイツ諸邦(王国、公国、司教領、伯領、帝国都市など)は、それぞれ国家主権が与えられ、相互間または外国との同盟条約締結の自由が認められた。これにより、ハプスブルク家の下のドイツ帝国(神聖ローマ帝国)は、もはや形骸を維持するにすぎなくなった。
 一方この条約によって、ラインをめぐる政治地図は根本的に塗り変えられた。ライン上流地域のスイスと河口のオランダの独立が正式に承認された。さらにドイツは、ライン左岸へのフランスの領土拡大を許す結果となった。ロレーヌ(ロートリンゲン)のメッス(メッツ)、トゥール、ヴェルダンの三司教領をフランスは最終的に獲得し、ストラスブールをのぞくアルザス(エルザス)の主要部分がフランスに帰することになった。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤雅彦『ライン河』岩波新書 pp.23-24

 諸侯のなかでも、とりわけ聖界諸侯つまり大司教の権勢は絶大であった。そんな中で当時ライン河いったいは「お坊さん通り」と皮肉をこめて呼ばれるようになった。ドイツの大司教座のうち、マインツ、ケルン、トーリアと、三つがこの地域に集中し、ライン河と支流のモーゼルおよびマイン川沿いに広大な領地をもっていた。大司教座だけではなかった。コンスタンツ、バーゼル、シュトラスブルク、シュパイアー、ユトレヒトと、多くの司教座の領地が、上ラインから下ラインにいたる沿岸各地に散らばっていて、ライン河はあたかも「お坊さん通り」の観を呈していたのである。
 この地域に多くの司教座が設けられるにいたった経緯は、ローマ時代にさかのぼる。ラインラント、ことにライン左岸は、すでにローマ帝国の属州時代にキリスト教化が行われた地域である。フランク王国時代には、この地に司教座が設けられ、ここを拠点として東方へのキリスト教の布教が進められていった。
 11世紀にはラインの三大司教座の勢力は強大となっていた。ケルンの大司教座は、ミュンスター、ユトレヒト(現オランダの都市)、リエージュ(現ベルギーの都市)の各司教座を、トリーアはメッツ、トゥール(いずれも現フランス東部ロレーヌの都市)をその管轄下においていた。マインツ大司教座にいたっては、上ライン・中ラインの各司教座のほか、アウグスブルク、フランクフルト、バンベルクからさらに東方のボヘミアまで管轄していた。
 彼らは国政にも関わることになった。ザクセン朝初代のオットー大帝が、反抗的な諸部族を抑えるため、行政を聖職者に委ねるという方針をとったため、ラインラントの各大司教座は皇帝の保護の下、その権勢をさらに強めることになったのである。三大司教には帝国大尚書長官の地位が与えられ、マインツ大司教がドイツの行政にあたったほか、ケルンとトリーアの大司教は、それぞれ当時帝国支配下にあったイタリア王国とアレラート王国(今日の南フランス東部)の行政を担っていた。

ライン河―ヨーロッパ史の動脈 (岩波新書)

加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書 p.82

 戦国時代は、中国史上最初の、高度成長の時代だった。人口は急増し、春秋時代の四倍にあたる二千万になった。この人口規模は、元禄時代の日本の人口や、今日の台湾に匹敵する。商業が発達し、都市が繁栄し、思想や文芸も活発化した。
 人口が四倍に急増した主因は、鉄器の普及である。鉄の原料は、銅鉱石よりもずっと豊富である。青銅器と違い、鉄器は大量生産が可能だった。農民は鉄製農具を使って農地を広げ、諸侯は鉄製武器で大規模な軍隊をつくった。軍隊は歩兵中心となり、戦争の規模は十倍化した。その結果、春秋時代まで存在した多数の都市国家は、少数の大国に吸収合併され、「領土国家」が生まれた。そして、「戦国の七雄」と呼ばれた七大強国が、天下統一を目指して、覇を競うようになった。

貝と羊の中国人 (新潮新書)

横山宏章『中華民国』中公新書 pp.5-7

 その多様な違いを単純化することは無謀であるが、あえて単純化した公式的解釈によれば、それは三つのグループに分けられる。
 (1) 洋務派(洋務運動)曾國藩、李鴻章らの清朝重鎮の改革派
 (2) 変法派(変法運動・立憲君主運動)康有爲、梁啓超らの戊戌維新派
 (3) 革命派(立憲共和運動)孫中山、黄興らの辛亥革命派
 単純化した分類なので、さらにその特徴を単純化して説明すれば、次のようにまとめることができよう。洋務派とは、世界を制覇していたイギリス海軍の圧倒的威力を見せつけられた清朝幕閣が、急速なる建て直しを迫られたなかから誕生した。直隷・両江総督を歴任した曾國藩や、その後を継いだ直隷総督・北洋大臣の李鴻章は軍事的経済的改革に乗り出した。近代的産業の導入と振興を図り、経済的充実による軍事的強化で西欧列強に対抗する「富国自彊(強)」策を展開した。それは総称して洋務運動と呼ばれた。現代的に表現すれば、まさに「改革・開放」路線であった。
 しかし現代中国の「改革・開放」政策も、経済的改革だけでは不十分であり、政治的にも共産党一党独裁体制を改革しなければならないという政治改革の主張が生まれているように、当時の中国にあっても、同じように洋務派的経済改革だけでは、西欧列強に勝てず、同時に政治改革もしなければならないという主張が生まれた。それが変法派の立憲運動である。中国の伝統的な皇帝専制の政治体制を堅持したままでの経済改革だけでは国力は強くならないというのが基本的見解である。西欧列強が強国となった原因は資本主義的産業革命を実現したと同時に、政治的民主化を進め、国民統合を実現したからであると認識し、中国でも同時に皇帝専制を改革しなければならないと主張した。
 だが、康有爲たちの政治改革は、皇帝専制を民主化するという改革路線であり、立憲君主制に改革し、国民の心を汲み取る賢明で開明的な啓蒙的君主(皇帝)が憲法の枠の中で広く民意を聞きながら上からの政治的民主化を進めるという主張である。モデルは明治維新後の立憲君主的明治憲法体制であった。康有為は変法(制度の変革)に共鳴した光緒帝に抜擢され、1898年に有名な「戊戌変法」の政治維新を実行したが、清朝保守派に潰されて「百日維新」で挫折した。
 しかしこの主張には一つの隘路があった。時の王朝は漢民族の王朝ではなく、異民族である満州民族の王朝であったということである。政治的民主化と漢民族としての国民統合を進めるためには、まず異民族としての満州王朝を打倒する必要があり、同時に新しい世界を築くには時代遅れの皇帝支配を克服した共和体制が望ましいという主張が生まれた。それが民族革命と民主革命を同時に実現しようという孫中山たちの革命路線であった。

中華民国―賢人支配の善政主義 (中公新書)

山内昌之『帝国のシルクロード』朝日新書 p.204

 イラン立憲革命は、日露戦争で火がつけられたともいえよう。戦争が起きると、その影響でロシアから砂糖の輸入が止まり、テヘランでは砂糖の値段が高騰した。砂糖は何によらず、紅茶好きのイラン人には欠かせない甘味料である。
 もちろん、カージャール朝(1796~1925年)におけるロシアに関連した借款の増大と、新しい関税制度への反感こそ、イラン立憲革命の大きな引き金になったことはいうまでもない。そして大事なのは、シーラーズィーに限らず、イランの人びとのなかには、日露戦争における日本の勝利をロシアの専制に対する立憲王制の勝利と考える者が多かったことである。

帝国のシルクロード 新しい世界史のために (朝日新書)

山内昌之『帝国のシルクロード』朝日新書 pp.191-192

 斉彬が黒船来航などアメリカの脅威を感じて改革の事業に乗り出したとすれば、ムハンマド・アリーは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト侵入(1798年)によって頭角を現した人物である。エジプトはオスマン帝国のなかでもいちばん豊かな州であり、二つの海を結びつけ二つの大陸にまたがる要衝であった。帝国の戦略的心臓部がフランスの小さな部隊によって易々と占領されたのである。しかも、そこで主に戦ったのはイギリスとフランスであった。つまり、中東のムスリムは自分たちの中庭で異教徒が野放図に戦うのを拱手傍観する屈辱を味わったのである。同じく斉彬の薩摩藩も黙っていれば、太平洋や東シナ海からひたひたと攻めてくる欧米の脅威の前に屈するはずだった。
 もちろん二人の間には大きな違いもある。斉彬の家は、鎌倉時代から薩摩島津荘の地頭職を務めた惟宗家に由来するが、島津氏の家譜では源頼朝を祖先としていた。このように斉彬は、守護大名と戦国大名をともに経験した由緒正しい家柄の出身で、徳川将軍家ともときには縁戚となった七七万石の太守の名流に生を享けたのである。西郷隆盛にしても下級家臣とはいえ鹿児島の城下士として素性が正しい侍なのであった。他方、ムハンマド・アリーはマケドニアのタバコ商人の子とも夜警長の子ともいわれ、庶人から立身出世してエジプトに移った野心家である。しかも、帝国のエリート軍人に多かったトルコ人やカフカース人でさえなかった。かといって彼はアラブ人でもない。ありようは、生涯アラビア語を不得意としたマケドニア人であり、おそらく今の感覚ではアルバニア人と表現したほうが適切かもしれない男にすぎない。
 それでも、武士の鑑と近代のファラオともいうべき二人の間には驚くほど共通点も多い。斉彬の集成館事業とタンジマート(あるいはムハンマド・アリー改革)はともに、19世紀前半のアジア大陸の西と東を代表する富国強兵と殖産興業の営みであり、いずれも徳川幕府の治める日本国家とオスマン朝の支配するイスラーム帝国の行き詰まりを何とかして打破しようという気概にあふれていた。なかでも、この二人は西欧による侵略と分割の脅威に直面して、政治をリアリズムの観点から見すえざるをえなかった。そこで産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化をはかった点に共通する特徴がある。

帝国のシルクロード 新しい世界史のために (朝日新書)

中西進『古代往還』中公新書 pp.249-250

 中央アジアにはカラ(khara/kara)という接頭語をつけた地名が多い。カラコルム山脈、カラホト、カラクム砂漠のように。またカラハン王朝といったたぐいである。
 このカラは黒を意味するが、さてその黒について、アンカラ大学の東洋学者オトカン教授は「黒は北、紅は南、白は西」のことだといった。だから北の海が黒海で、紅海は南にある、と。
 そもそもカラはモンゴル語とかトルコ語とかと考えられているが、本来アルタイ系語族に属している。それはトルコへひろがったと同時に朝鮮半島経由で日本に入ってきたはずだ。――そう服部さんは考える。
 そこで話が俄然おもしろくなる。このカラが朝鮮、中国をいうときのカラだというのである。
 カラは黒で北方を意味する。すると「天子南面」の思想とひとしく、天子は北にいるから、カラは宇宙の中心でもある――これも服部さんの意見だ。

古代往還―文化の普遍に出会う (中公新書)

中西進『古代往還』中公新書 pp.7-8

 ゾロアスター教という古代ペルシャの宗教がある。拝火教と訳されることがある。この宗教が古代日本にも入ってきていたというのが松本清張さんの主張で、小説『火の回路』(刊行時『火の路』)がかかれた。
 拝火教と訳されるように(ゾロアスターというのは予言者の名である)、太陽、星、火などを崇拝する。
 この宗教の最高神はアフラ・マズダという。アフラは神、マズダは知恵のことだ。最高神だからアフラ・マズダは一切の正義、秩序、慈悲、光明の神とされる。光明――正しくは輝きの神だから、日本でマツダランプという電球が売りだされたことがある。松田さんが作った電球ではない。
 さてこのアフラの神はペルシャでは最高の神とされたが、一方インドでは悪神とされた。阿修羅がそれである。サンスクリット(梵語)ではアスラという。

古代往還―文化の普遍に出会う (中公新書)

宮田律『中東イスラーム民族史』中公新書 p.72

 9世紀になると、シュウービーヤ運動(アッバース朝初期、アラブと非アラブとの平等を主張したイスラームの文化運動)が盛んとなり、その結果イラン人は、イスラームの信仰をもちながらも、ペルシア語を使用するようになった。行政用語や歴史的著作、神学などはアラビア語で書かれたが、詩は圧倒的にペルシア語で詠まれる。
 その背景には、イラン人が、フィルダウスィー(934~1025)の『シャー・ナーメ(王書)』などを通じて自らの過去を振り返っただけでなく、『王書』がペルシア語の標準語をイラン人の間に浸透させ、ペルシア語方言の使用を大いに減ずることになったことなどが挙げられる。『王書』は、イスラーム以前の古代イランに関する一大叙事詩であるばかりでなく、「新ペルシア語」の基礎ともなったのである。

中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ (中公新書)

宮田律『中東イスラーム民族史』中公新書 p.69

 アフラマズダに光明を見いだすことから、火を崇拝した。ゾロアスター教が「拝火教」と呼ばれるのはそのためである。イランのヤズド周辺では、現在でもゾロアスター教が信仰されており、私がヤズド郊外の山の中腹にある寺院を訪れたときも、祭壇では薪木が燃やされていた。作家の松本清張氏は、奈良・東大寺の二月堂のお水取りの行事はゾロアスター教の影響を受けたものではないかと推理している。

中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ (中公新書)

笈川博一『物語エルサレムの歴史』中公新書 p.32

 どうもここには二つのバージョンがあるようだ。一つはダビデがいきなり油を注がれて王になる話であり、もう一つはダビデがごく子供の時に始まるものであるらしい。後者のバージョンでのダビデの最初のエピソードはペリシテ人の豪傑、ゴリアテとの一騎打ちである。彼は、放牧している羊を襲うライオンやクマを撃退するのに使い慣れた石投げ紐で石を飛ばして勝利した。湯上りに左肩にタオルを掛けているように見えるミケランジェロのダビデ像がフィレンツェにあるが、この“タオル”が石投げ紐である。皮肉なことに1987年に始まったパレスチナ人の対イスラエル闘争、第一次インティファーダではこの石投げ紐でイスラエル軍の戦車に石を投げるパレスチナの少年たちが有名になった。ここでは強力なイスラエルがペリシテ人の英雄、ゴリアテになぞらえられたのである。

物語 エルサレムの歴史―旧約聖書以前からパレスチナ和平まで (中公新書)

山内進『北の十字軍』講談社選書メチエ pp.290-291

 繰り返すが、中世の「ヨーロッパ」は、内部にも外部にも十字軍を派遣し、「ヨーロッパ」の純化と形成、拡大を続けていた。イベリア半島では、イスラム教徒を追い出すための「再征服(レコンキスタ)」が十字軍(思想)と密接な結びつきのうちに展開されつづけた。そのレコンキスタの延長線上に、アフリカやアメリカがあることは、もはや明らかであろう。少なからぬローマ教皇が、イベリア半島に住むイスラム教徒を攻撃、支配、略奪することを、そしてキリスト教徒に「罪の赦免」をあたえ、攻撃し、奪い、征服することを赦していた。それは、大航海時代の教皇の勅書に直結する。
 また、プロイセンやバルト海沿岸地帯、今日のバルト三国に派遣された十字軍とその思想は、アフリカとアメリカへの「ヨーロッパの拡大」のひな形を提供するものであった。この地方は、かつてキリスト教徒が住んでいたわけでも、直接支配していたわけでもなく、イスラム教徒が強固な支配を行っていた事実もない。そこには単に比較的プリミティブな異教徒が住んでいたにすぎない。この十字軍は、キリスト教ヨーロッパの北のフロンティアを攻撃、支配し、その同化を図り、教皇と教会法学者はその実行を道徳的にも法的にも正当化した。これが、16世紀以降のアメリカ大陸の歴史を準備したのである。
 大航海時代は、ヨーロッパのフロンティアが大西洋とインド洋を越えて、世界に拡大する時代であった。ヨーロッパ大陸の枠の中で行われていた「ヨーロッパの形成」は、ここに大きな舞台を獲得する。イベリア半島とバルト海域で鍛えられた「ヨーロッパ拡大の論理」は、とりわけ新たに「発見」された、インディオやアメリカ・インディアンといった、比較的プリミティブな異教徒たちから支配権と財産権、信仰と自由を奪うことに貢献した。

北の十字軍 (講談社選書メチエ)

杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉』講談社現代新書 pp.226-227

 そのポスト・モンゴル時代、際立った大現象として、モンゴルほどではないけれども、モンゴル以前ではありえなかったような「大帝国」が、一斉に出現する。アジアでは、ヨーロッパとアフリカの一部を含む形で、東・西・南・北に四つの大単位の帝国が、長期にわたって並び立つ状況となった。
 東では、明帝国、そして17世紀半ばからは、大清帝国である。西では、オスマン帝国。南では、中央アジアを本拠に四周を切り従えたティムール帝国が16世紀、インドにまで南下して、ふつう「ムガル朝」と称せられる帝国をつくる。そして北では、300年余のモンゴル支配の中から16世紀半ば、ロシア帝国が浮上する(ロシアはずいぶんと長い間、東向きにシベリアとアジアへ「陸進」する。久しくロシアは、アジアに力点のかかった帝国であった。西向きにヨーロッパへ向かうのは、むしろその晩期である)。
 これらは、いずれも大型であるだけでなく、長い命をもつ帝国となった。最も早く解体したムガル朝という名の「第二次ティムール朝」でさえ、18世紀の後半まで続く。ティムールから通算すれば、なんと400年。インド帝国としても、250年余の生命を保った。そして、残る三つはすべて、20世紀にまで至る「老大国」となった。大清帝国は1911年、オスマン帝国は1922年、ロシア帝国は1917年に、それぞれ別々の「革命」で消滅する。

モンゴル帝国の興亡〈下〉 (講談社現代新書)

杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉』講談社現代新書 pp.205-206

 マムルーク朝にとっては、肝心のボスポラスを敵のラテン人が支配していた。ところが、ここでもまた、偶然と言えばあまりにも偶然なほど都合よく、1261年に変化が起きた。ニカエアに逼塞していたビザンツ帝国が、コンスタンティノープルを取り戻したのである。バイバルスにとって、視野は開けた。「ビザンツ皇帝」と言っても、ごくささやかな力しかなかったが、ともかく皇帝ミカエル・パラエオログスは、フレグの動向を気にしながらも、妨害はしなかった。ここに、フレグ・ウルスを敵とするヴォルガとナイルの南北同盟が成立したのである。
 これは、「イスラーム・キプチャク同盟」と言ってよい性格をもっていた。バイバルス自身をはじめ、マムルーク戦士の多くは、キプチャク草原の出身者であった。ずいぶん前から、ジェノヴァを筆頭とする黒海貿易に従事する奴隷商人の手を経て、かの地の若者たちは中東ヘ売られ、そこで「マムルーク」、すなわち奴隷軍人となった。キト・ブカのモンゴル軍を打ち破ったのは、こうしたトルコ系の騎馬戦士軍団であり、実のところ、モンゴル軍とマムルーク軍は似た者同士なのであった。急速にトルコ化、キプチャク化したジョチ・ウルスとエジプトのマムルーク朝とは、「兄弟国」と言っても差し支えない面々から成っていた。しかも、ベルケがイスラーム信仰を受容したことは、バイバルスにとって「イスラームの大義」を主張できる好条件となった。
 はさみ討ちにされる格好となったイランのフレグとその後継者たちは、この「縦」の同盟に対して、ヨーロッパのキリスト教世界に「横」の同盟を求めざるをえなくなった。この頃、フレグ家とそのウルスにはまだイスラーム色は薄く、むしろネストリウス派キリスト教の方に親近感を抱く者の方が多いくらいであった。

モンゴル帝国の興亡<上> (講談社現代新書)

礪波護『馮道』中公文庫BIBLIO pp.66-67

 ところで李克用は、当時のいずれの軍閥にも流行した風習に従って、多くの義子をもっていた。かれが最後まで後梁の圧迫に対抗しおおせたのも、この義子たちの尽力によるところが多かった。李克用の義子は百余人におよぶといわれ、李嗣源、李嗣昭、李嗣本、李嗣恩、李存信、李存孝らが著名である。また李克用には義児軍と称する部隊があり、それは義子によってひきいられたと考えられる。
 義子とか仮子とかいう形態をとらないまでも、私的・個人的関係によって結ばれた腹心的兵力をおいて権力を強化することは、この時期の節度使の一般的な傾向であった。すでに唐の中期以後、節度使が仮子関係によって結ばれた集団的武力を身辺におくことは、かなりひろく行われていた。安祿山も“曳落河”と称する数千人の養子部隊をもっていたという。ただ李克用のばあいに、多数の個々の義児たちが権力の中枢部を握るにいたったのが特徴的であった。
 義子とか仮子のような個人的結合関係は、古今東西を問わず、その中心となる主将の他界によって、容易に解体しかねないもろさをもっている。李克用の集団においても、その弱点が克用の死によって暴露された。李存勗は晋王の位についたが、克用の義子たちのほうが年長でもあり、兵権を握っていて、存勗の襲位をこころよく思わないものもいた。

馮道―乱世の宰相 (中公文庫BIBLIO)

牟田口義郎『物語 中東の歴史』中公新書 pp.182-183

 イスラーム世界における主人と奴隷との関係は、アメリカにおけるそれとはまったくちがう。『千一夜物語』を見れば、才色兼備の女奴隷が神学の大先生をやりこめる話をはじめ、さまざまな奴隷の話が語られているが、アメリカの場合に比べてはるかに開放的なところが特徴だ。主人と奴隷との関係は従属関係というよりは血縁関係に近かった。マムルークたちは主人の名をもらって自分の姓にするのがふつうだし、主人の子どもたちと同じ教育を受けた。また、いちばんすぐれたマムルークは家長として主人の後を継ぐことも多かった。当然彼らも不動の忠義をもって主人に仕え、主人のために戦うことになる。

物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)

牟田口義郎『物語 中東の歴史』中公新書 p.187

 バフリのもうひとつの特徴は完全にサーリフの私兵だったことである。約一万といわれる大部隊を個人の力で養うには、膨大な財力が必要だが、その点サーリフは恵まれていた。ローマ時代以来ヨーロッパ人がのどから手が出るほど欲しがるスパイスは、インドおよび南の島々で産するが、当時のスパイス・ルートは紅海からエジプトを経由、アレクサンドリアの港からヨーロッパへ、ヴェネツィア、ジェノヴァの商人たちによって運ばれていた。サーリフのふところは、その通過税でたっぷりふくらんでいた。当時のエジプトは、ヨーロッパを含む地中海沿岸諸国のうち、もっとも裕福ではなかったか。

物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)

臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書 pp.42-43

 プロイセンはナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で、フランス、ロシア、イギリス、オーストリアに次ぐヨーロッパ第五の強国としての地位を確立した。しかし、それからすでに半世紀を経ている。プロイセンはオーストリア帝国を相手に、ドイツ統一の担い手を自負するに至っていた。が、プロイセンは依然として、陸軍大国でしかない。世界列強に名を連ねるための絶対必要条件というべき強力な海軍がない。海洋を舞台とする世界交易の時代に、プロイセンは完全に立ち遅れている。しまも、プロイセンのライバルというべきオーストリアはイタリアの海岸部を自分の領土とし、トリエステを基地に強力な地中海艦隊を保有していた。
 オーストリア地中海艦隊の活動が地中海に限られているなら問題はない。プロイセンにとって問題なのは、オーストリア地中海艦隊がジブラルタル海峡を廻って北海に出没し、盛んに「ドイツの艦隊」とはオーストリアの艦隊であることをデモンストレーションしていることであった。そこにはハンブルクやブレーメンといった、みずからは戦闘能力を保有しないことを売り物にしてはいるものの、やはり、いざというときには自分たちを守ってくれる海軍力を有した統一ドイツを望む、ドイツ語圏有数の商業拠点でもある帝国自由都市が並んでいた。もし、ハンブルクやブレーメンがプロイセンよりも、オーストリアとの友好を優先でもしようものなら、プロイセンを中心とする小ドイツ主義的ドイツ統一などありえない。
 しかも1856年、オーストリアがノヴァラ号によって世界周航という快挙を成し遂げていた。それに対して、初期のプロイセン海軍はもっぱら沿岸警備が目的であった。この海軍力の差は、ドイツ統一の主導権争いに決定的な影響をおよぼしかねなかった。

榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書 pp.16-18

 クリミア戦争はヨーロッパの国民国家形成時代の幕開けであった。発端は、フランス・ナポレオン3世が聖地イェルサレムの管理権を求め、オスマン・トルコがこれを認めたことにある。これを不服としてロシアがトルコに宣戦布告すると、フランスとイギリス、さらにサルディニア公国が、トルコを支援して参戦した。
 この組み合わせからしてすでに画期的である。17世紀以来、イスラム世界の雄としてキリスト教ヨーロッパ世界を威圧しつづけていたオスマン・トルコ帝国が、あろうことか英仏の支援を受けているのである。キリスト教ヨーロッパの分断政策がトルコのしたたかさであるとしても、オスマン・トルコ帝国自体は確実に弱体化している。オスマン・トルコの弱体化はしかし、地中海からバルカン半島、アラビア半島に至る全域で民族独立運動を加速させるだろう。しかも英仏はすでにイスラム教のトルコ帝国よりも、ロシア帝国により大きな脅威を覚えているのである。
 ロシアはオーストリアの参戦を期待した。ロシアのロマノフ王朝とオーストリアのハプスブルク家は、そもそも、ともにナポレオンを打ち破って以来、固い結束を誇ってきた仲である。
 しかしオーストリアは中立を保ったばかりか、ロシアに英仏との講和を要求した。ロシアとオーストリアの協調の終焉、それはロマノフ王朝とハプスブルク家という二大王朝の下に、ヨーロッパ各地の民族主義を押さえ込んできたウィーン体制の終焉を意味している。ヨーロッパ全体に国民国家への道が開かれ、それに乗じたサルディニア公国の参戦である。サルディニア公国のねらいはイタリア統一であり、イタリア統一運動の興奮はすぐにアルプスの彼方のドイツを筆頭に北欧諸国に感染し、またすぐにバルカン半島に跳ね返るだろう。

榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.387-388

 オスマン・トルコ帝国の領土は、はじめ黒海沿岸一帯をおおい、バルカン半島、シリア、エジプトから北アフリカに延長し、一方はメソポタミアを領有してペルシア湾にのぞんでいたので、従来の立場からすれば、東洋からヨーロッパへの交通路線は、すべてトルコ領内で集約されるはずであった。事実トルコ帝国が起りかけた14、5世紀までは、中国、インドからヨーロッパにいく通路は、必ず一度はトルコ領内またはその近くを通過しなければならなかった。全盛時代のトルコ帝国はアジア、ヨーロッパ、アフリカ三大陸にまたがる世界の中心に位置していたのである。
 しかしこの形勢はつぎの16、7世紀から急激に変化しはじめた。それはポルトガルの新航路発見により、ヨーロッパの商船はトルコ領土の付近にさえも立ち寄らないでインドに到達し、それから南洋諸島、あるいは中国沿岸にまで行程を延ばすことができる。一方陸路は、ロシアのシベリア征服により、極北迂回路が成立して、中国はロシア領を通過してヨーロッパに結ばれ、以前のようにトルコ領に立ち入る必要がなくなった。トルコ帝国はまったく世界の交通から、したがって世界の進歩からも取り残された孤島となって横たわるに過ぎない。トルコ帝国は東アジアからもヨーロッパからも忘れられた存在になったのである。そして他から忘れられた存在は、太平の夢を貪って惰眠をつづけるのに都合がよかった。トルコ帝国は世界的競争から脱落するとともに、急激に衰微し、頽廃しはじめたのであった。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 p.307

 宋代には南中国を中心として大いに科学的知識が発達したが、それはおそらくアラビア人の刺激によったものであろう。北宋中期、王安石と同時代の政治家沈括の『夢渓筆談』には、新しい科学知識が記されているが、かれはアラビア商船の輻湊する泉州の人である。宋代の新学である性理の学は、イスラム神学から影響を受けているかとも思われるが、まだ実証されていない。朱子が地球の球体であることを知っていたのは、おそらくアラビア天文学から教わったものであろう。

アジア史概説 (中公文庫)

関連記事s