司馬遼太郎『中国・閩のみち 街道をゆく25』朝日文庫 pp.35-36

 福建省は、中原文明に化せられるのが、淅江省よりはるかに遅れた。大いなる拡張主義だった秦ノ始皇帝がいまの福建の一部に「閩中郡」を置いた(『史記』の「東越伝」)といわれるが、ごく形式的なものだったはずである。
 唐も晩唐になって、やっとここに組織的に漢人の集団が入ってくる。当時、中国内地はみだれていて、各地で流民が蜂起していた。そのなかにあって、中原の河南省の豪農だった王潮と王審知という兄弟が私軍をひきいて各地を転々し、ついに福建五州に入って、ここに漢族による征服王朝を樹てた。
 滅亡寸前の唐王朝は王潮に節度使の官職をあたえ(898年)、唐がほろんでのち、後梁が王審知を「閩王」として封じた(909年)。その後、王氏の閩王朝は、中国内地から独立した。ただ、漢文明はたっぷりと導入した。
 その閩王朝も、数代でほろび、福建省が堅牢なかたちで中国の版図に入るのは978年で、この年宋に統一された。しかも、入るやいなや、一種、スターとしての栄光を得た。アラビア人による海洋貿易が福建の諸港と福建人を世界経済の中にまきこみ、中国の重要な顔になった。福建人は、航海者として活躍しはじめた。

街道をゆく〈25〉中国・ビンのみち 朝日文庫

司馬遼太郎『中国・蜀と雲南のみち 街道をゆく20』朝日文庫 p.14

 李白は西域の貿易商人の子だったというから、その容貌はイラン系のようだったかと思える。父が商業上の必要から蜀にやってきたために、李白はここで少年期をすごし、二十五歳のころ、志を抱いて四川を降り、四方に旅をした。

街道をゆく〈20〉中国・蜀と雲南のみち (朝日文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 pp.323-324

 中国が荘園の普及によって資源の開発が進むと、これにともなって通商圏の再拡大が起こってくる。それは戦国、秦、漢の時代よりも、さらに輪をかけた大きさのものである。はやい話が中国と日本との関係において、漢代にはやっと日本の存在が漢朝廷に認識されたていどであったのにたいし、隋唐になると正式の国交が定期的に行なわれ、民間の貿易も開始された。これによって起こったのは、中国の周囲からの中国にむかっての金の輸入である。中国はこうしてふたたび好景気時代を迎えることができた。その好景気の波にのって、中国の近代化が用意されるようになったのである。
 これと似たような現象は中世末期のヨーロッパにも起こっている。中世的な通貨不足もそれがどん底まで落ちると、銀鉱の探索がはじまって、ドイツあたりの銀生産が急に増加した。それが呼び水となって経済界を刺激し、オリエントとの貿易が活発となり、まず好景気を迎えたイタリア沿岸都市から、近世的文化の光がさしはじめたのである。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 p.319

 これまで試みた東西洋の中世史の対比のうえから議論をおしすすめると、東アジアの唐帝国(618~907)は、さしずめヨーロッパではカール大帝を出したカロリング朝のフランク王国(751~911)に比較さるべきものであろう。ただ唐帝国は完全に漢帝国の領域を回復したのにたいし、カロリング朝は皇帝とは称したものの、その最盛時においてさえローマ帝国の全領土を再統一するにはいたっていない。ただ両者とも、古代帝国滅亡ののちに出現した、最大の中世的統一国家たる点においては共通している。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 p.247

 北魏王朝(386~534)の歴史的意義を、ヨーロッパ史について類例を求めるなら、さしあたりクロドウィヒ王統のメロヴィンガ朝フランク王国(481~751)に比せられるべきであろう。事実北魏の支配下において、ひとたび泥土にすてられた中国古代文明の伝統が探求され、復興される気配をみたからである。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 pp.141-142

 東晋政権は、これをヨーロッパ史上に類似を求めるならば、まさに東ローマ帝国に相当するであろう。ともに異民族のために従来の本拠を占領され、東南に半分残った地に割拠して、しかも正統政府を名のるものである。
 東ローマ帝国がダーダネルス海峡を扼し、地中海上の覇権をなお維持したように、東晋政権は揚子江の水路を掌握することによってその領土の統一を保ち、北方異民族勢力に対抗することができた。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 pp.135-136

 中国においては後漢時代から、豪族による荘園の開発が進行したが、それが土地に関するかぎりでは、新資源の開発を意味する。しかしながらその労働力は、国家の公民をつれ去って私的な隷農として働かせたものである。人民の数はそれほどふえず、むしろ悪政や天災のために減少したと思われるときに、荘園が盛行すればそれだけ、国家の公民は減少をきたすのである。
 このことはふたつの結果をもたらす。そのひとつは国家財政の貧困であって、租税負担者が少なくなれば、それだけ歳入はへることは見やすい道理である。
 つぎには兵役負担者の減少である。これも国家の公民が少なくなれば当然起こる結果にほかならない。そこで政府は、中国人を使用するよりも効率の高い方法として、異民族を軍隊に採用することとした。かれらは生活程度が低いので、給与も小額ですますことができる。また日常が放牧生活なので騎射に巧みであり、戦士として優秀な素質をもっている。かくして軍隊がまず異民族化されたのであった。
 しかしながら異民族を軍隊に用いることは、一歩誤れば重大な結果をひきおこす。とくに戦争がながびくばあい、かれらはしだいに自己の力量を自覚し、他人の傭兵として働くことに満足せず、自分自身のためにその武力を使用しようとするのはきわめて自然なことである。
 このようにして中国では、董卓、呂布にひきいられた異民族騎兵、いわゆる胡騎の内戦参加にはじまり、八王の乱における胡騎の利用を経て、匈奴部落長劉淵一家の独立、その中原征服へと事態は急速に進展したのである。これとほとんど同様なことが、ローマ帝政末期にヨーロッパにおいて継起していたのである。
 もうひとつ忘れてならないことは、ほかにも中国とヨーロッパとに共通した類似的環境が存在したことである。それは両者ともその隣人として、もっと文化の古い、社会組織の進んだ西アジア地域をひかえ、たえずこれと交通し貿易をつづけてきたことである。おそらく普遍的な原則といえそうなことは、先進地域と後進地域とが貿易するとき、先進地域が出超となり、後進地域が入超となる事実だ。いずれの時代、いずれの地域においても貿易の決済は貨幣をもってなされねばならぬ。そして正貨たる貨幣は金か銀かであり、銅は補助貨幣として用いられる。
 さて中国が西アジアと貿易を重ねるうち、中国地域の正貨たる黄金はしだいに西にむかって流出した。正貨の減少はいずれの社会においても深刻な不景気現象をひきおこす。ここに正貨にたいする異常な愛惜が起こり、ひいて自給自足の荘園経済を盛行させる結果となった。これとまったく同様なことが古代ローマにも行われたのであって、それが中世世界へ展開していく大なる契機となったことは、よく世に知られるところである。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『大唐帝国』河出文庫 pp.36-37

 本籍地から逃亡して他郷へ出れば、もう政府の保護は受けられなくなる。籍ももたず、所有地もない流浪の身となったので「客」と呼ばれる。かれらは比較的大きな都市にはいって日やとい人夫となるか、でなければ荘園へはいってそこで隷農として働く。いわば身売りをしたようなもので、もともと本来はりっぱな自由民であるが、一家とともに荘園所有者に隷属してしまうのである。
 この経路は、ローマ時代にあらわれたコロナトス(Colonatus)とまったく同じものである。ここに自由民でもない、奴隷でもない、その中間に位する賤民階級の発生をみたのである。これが唐代の法制に規定された「部曲」なる隷民の期限である。

世界の歴史〈7〉大唐帝国 (河出文庫)

宮崎市定『東西交渉史論』中公文庫 pp319-321

 モンゴル民族の西方遠征をひきおこした遠因は、別に十字軍の東方へ及ぼした影響の中においても探すことができる。それは東西交通路の変遷である。十字軍は結果としてヨーロッパとアジアとの交易を促進したことになったが、ただし十字軍が戦われていた当時においては、戦争が交易を妨害したであろうこと、察するに余りある。ところでこの戦争の舞台は極めて広く、小アジアからエジプトに及び、古代の絹街道の西端は何れの出口も悉く封鎖を受けた結果となる。そこでもしヨーロッパ人が戦争に捲きこまれる危険を避けて東方へ安全な交通路を求めようとすれば、それは思い切って遠く北方を迂回し、黒海、カスピ海の北をまわって中国へ達する外より途はない。恰もよし、中央アジアまで到達すれば、その東は遼の大版図に接続する。そしてこの遼王朝から、或る種の中国産物を求めることができる。例えば絹である。遼は宋から歳幣と称して年々、絹三十万匹、銀二十万両を受ける条約を結んでいる。このうち銀はおそらく中国と貿易するときの代価を意図し、絹は西方貿易の際の見返り物資に用いる目的であったと思われる。これに倣って西夏も宋から銀・絹・茶を贈与されて平和を保つ約束をしたが、茶は自国消費用、銀・絹はそれぞれ対中国、対西方の貿易用であろう。そこで、東ローマ帝国の都コンスタンチノープルから、黒海の北岸に渡り、陸路カスピ海の北をまわり、アラル海の北から天山山脈の北に沿って東に進み、西夏領の北端をまわり内蒙古を経て遼の国都臨潢、或いは南京(今の北京)に達する大カラバン道路が開通したことになる。
 もしヨーロッパからインドへ到達しようとするならば、アラル海の東において南に折れ、サマルカンドの辺で古代絹街道を横断し、アフガニスタンから北インドに入る。そこでサマルカンド近傍は従来の絹街道と新開唯一のインド通路との交差点となって、空前の繁栄を極めるようになった。セルジュク・トルコ王朝が衰頽に向った頃、ここを中心としてフワリズム王朝が富強を誇ったのは、このような交通の要衝を扼したがために他ならない。

東西交渉史論 (中公文庫)

宮崎市定『東西交渉史論』中公文庫 pp315-316

 かくして戦われた十字軍は、西アジアの後背地なる中央アジア、更にひいては極東アジアの地域にも大なる影響を及ぼさずにはおかない。第一に十字軍は夥しい人口の消耗を伴った。悲惨な虐殺が絶えず繰返され、戦場においても戦士の身体がばたばたと倒されて行く。ヨーロッパ方が常にその援軍を本国に求めたように、トルコ方も不断に軍人を補充して行かなければならない。そして人的資源は、セルジュク王朝が進んできた道筋に沿って東方国境から送りこまれた。東から西へ、絶えず人員を引きぬかれると、東方には人員希薄な、いわば真空地帯が出現する。するとそこへは更に東方から別種のトルコ人が侵出する。セルジュク王朝が衰えた11世紀の後半、中央アジアに出現した強国、フワリズム王朝はこのような動きの中に成立したのであった。
 モンゴル民族の興起も亦、トルコ族の西方移転が引き起こした波動の一として見ることができる。

東西交渉史論 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史論』中公クラシック p.205

 注釈がしだいに加重されてゆく理由はまた別にあった。元来経書はそれぞれが分離して単独に行われて来たので、一つの経書が一家の学をなし、一家の学だけで完成されたものと考えられていたから、家学と家学との間の横の連絡、経書と他の経書との間の相互の関係は別に問うを要しなかった。然るに後漢の頃より一人にして数経を兼ぬることが流行となった。馬融、鄭玄等はかかる兼経の大学者である。彼等は勢い一経と他経とを比較したために新たに起さるる疑問に対して解決を与えねばならなかったので、これが彼等が数多の経書に対し、同時に注を施した理由であった。唐代に至って科挙が盛んとなり、この際には試験問題として経書の本文を出し、これに対する解釈を求むるのであるから、基本となるべき権威ある参考書が必要となる。これ唐代において五経正義、即ち五経に対する疏が撰定され、勅命によって公布せられた理由である。

アジア史論 (中公クラシックス)

岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫 pp.104-105

王莽は熱心な儒教の信者で、儒教の予言に従って漢を乗っ取り、儒教の理論を守って政治を行った結果、中国世界は全面的に崩壊し、王莽も滅亡したのである。王莽は滅亡したが、代わって漢を再建した劉秀(光武帝)もやはり儒教徒で、儒教は後漢の政治の指導原理の地位を保った。つまり儒教の隆盛は王莽のお陰であった。
 「漢書」の末尾に「叙伝」という一篇があって、著者の班固が自分の出身と、著作の意図を述べているが、その中には、班固が王莽に寄せる好意が歴然と表れている。
 「叙伝」によると、班固の家の始祖は山西の北部、モンゴル高原に接する国境地帯で、馬・牛・羊数千頭を所有する、地方の有力者であった。班固の曾祖父の班況は三人の息子があった。その末子が班穉で、すなわち班固の祖父である。
 漢の元帝の皇后(元后)は王氏の出で、成帝を産んだ。前33年、元帝が死んで二十歳の成帝が皇帝となると、成帝の母である元后の兄の王鳳が後見役の大将軍となって、政治の全権を握った。王氏が勢力を得たのは、これからのことである。王鳳の弟の王曼の子が、王莽である。
 班穉の長兄の班伯は、若くして『詩経』を学び、大将軍王鳳の推薦で、成帝の御学友となった。これは姉が、成帝の妾だったからである。
 王莽は、班穉兄弟と同年輩で仲がよく、班穉の次兄を実の兄のように尊敬し、班穉を実の弟のようにかわいがった。班穉の次兄が死んだとき、王莽は特に喪に服し、多額の香典を贈った。班穉の息子の班彪が、『漢書』の著者の班固の父である。

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 p.213

 さりながら、ここでどうしても想起してほしいのは、西アジアに現れた前記の三大帝である。年代順に並べると、オスマン=トルコのスレイマン大帝(1520-66)、ムガール=インドのアクバル大帝(1556-1602)、およびサファヴィー=ペルシアのアッバース大帝(1587-1629)にほかならない。火の消える直前に灯は一段と明るさを増す。そのように、この三大帝の時代は、イスラームの国々が転落の坂にかかる直前に示した強力の時期であった。したがって、アジアの海に進路を見出した西欧の国々も、この三大帝の統治に対しては手も足も出せなかった。いきおい彼らは、デカン半島の沿海部(マラバル海岸やコロマンデル海岸)とか、ビルマ、マレー、インドネシアなど、アジアの弱点をつき、ほとんど掠奪に等しい取引によって巨利を貪る有様にすぎなかった。
 それは前記の三大帝が、奇しくもイギリスのエリザベス女王(1558-1603)と、またロシアのイワン雷帝(1533-84)とも同時代であるという事実を考慮する必要がある。後者がロシアのシベリア侵略にとっての開幕者であったことは前述した。前者はイスパニアの無敵艦隊を破って、イギリスを七つの海の支配者にまで高める道をつくっている。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 pp.160-161

 春秋・戦国(中国)対楚(非漢人)、また南北朝、さては金対宋といった中国の二分が秦嶺=淮河線に拠っていることは、すでに述べた。もちろんこのような風土区分は、もっと細かくされてよく、それは一応図27のように考えられるであろう。この地域区分は、しばしば政治圏を分立させたことは注意しておかねばならない。春秋=戦国時代での漢人系諸国の配置は、まさにその典型であって、燕(河北)、斉(山東)、晋(山西)、秦(陝西)の名は長く地方名として伝わり、現在も各省の慣称として残っている。五胡十六国のうち、燕を号したもの三(鮮卑の慕容氏、北燕は例外)、秦と称したもの三は、同じ観点から、その位置を確かめることができる。同じく涼を称した五国は河西(涼土)での立国、趙を称したもの二は、三晋すなわち韓・魏・趙の分立から推せる。秦嶺=淮河線以南はそのころまで新開地であったから、地域区分も大ざっぱであったが、五代十国になって、それが明瞭に政治区画として浮かびあがっている。蜀(四川)、荊南、楚、呉、呉越、閩、南漢などの諸国を見るがよい。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 pp.34-35

 ところが、前近代のアジアでは、むしろ内陸アジアを中間に置く東西の関係が中核となる。その部分だけを抽出すれば、図5のように描かれる。つまり、オアシス世界(西アジア・中央アジア)というクサビが、華北の黄土地帯に強く接触している形であるが、その接点に敦煌が位すると受取って誤らないであろう。また華北の黄土地帯(黄河流域)は、寡雨の半砂漠で、その生活は、後述のように、オアシス作りから発足している。したがって、ここに描いた図は、アジア大陸の中央部を東西に貫くオアシス地帯を表示したものともいえる。そしてこの地帯こそは、アジア文化の起源であり、アジア農耕社会の発祥地として見のがすことができない。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 pp.19-20

 この「モザイックのアジア」をどのようにまとめて把握するかの問題に、私は多年取組んできた。その一試案として、昭和12年に公表したのが「三風土帯説」つまり「三つのアジア」にほかならない。それは、アジア大陸を、湿潤地帯、亜湿潤地帯および乾燥地帯に三分して考えるもので、それぞれ湿潤アジア(Wet Asia)・亜湿潤アジア(Semi-wet Asia)・乾燥アジア(Dry Asia)と略称している。いうまでもなく湿潤アジアは、地理学でいう東アジアと南アジアにあたる。また亜湿潤アジアは北アジア、乾燥アジアは中央アジアおよび西アジアに相当する。それならば、これは地理的区分ではないか、といわれるかもしれない。しかしこれは風土的にアジアを三分したものであって、仮に乾・湿を基準として命名しただけであり、かつ三つの区域からスタートしている五つの主要な生活型(生活様式)を歴史の基盤としているのである。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 pp.208-209

 ところが十字軍は、この形勢を変えた。ビザンティン帝国はまもなく復興されたものの、その保持していた歴史的な立場は、完全に北イタリアの諸都市に奪われている。ヴェネツィア、ジェノヴァの海上活動は、最も顕著であった。そしてこれらの北イタリアの港市からアルプス越えでライン河に至る商路が、ヨーロッパの新しい主軸となる。北イタリア諸港市が営むレヴァント(シリア、レバノン、イスラエルの沿海部やキプロス島)貿易が盛大となり、イスラーム側との交渉も深まる。その結果、イスラーム側に温存されていた古典が伝わり「古学復興」を起こしてルネサンスへの途が開かれる。
 他方、十字軍が起こされた11世紀には、西地中海の情勢も変わっている。まず十字軍運動がはじまる70年ほど前に、ノルマン人のヴァイキングが地中海にまで及んで、1026年にシチリア島やイタリア半島南端部を奪い、植民を開始した事件が想起される。この部分が地中海の核心、俗にいえばヘソに当たるだけにイスラームにとっては打撃であったにちがいない。それから時代は降るが、第六次十字軍(1248-54)と第七次十字軍(1270)つまり最後の二回の十字軍は、フランス王のエジプトおよびチュニジアへの出兵の形をとった。このことは、十字軍としては気まぐれ的な事件として軽く扱われているが、実はフランスの地中海貿易への参加を意味し、マルセイユ港の復活につながったのである。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書 p.279

 その間にパリでは、ヴォルテールの弟子であったテュルゴ宰相が、抜本的な社会改革を推進しようとして失敗、罷免され、「上からの改革路線」は頓挫を来し、ヴォルテールの意図は挫折を決定づけられた。こうなればルソーの「下からの」暴動による民主革命しかない。こうしてルソーの時代が来た。ヴォルテールの『哲学辞典』よりはルソーの『社会契約論』が、急進的知識人の聖書となる。

物語イタリアの歴史―解体から統一まで (中公新書)

藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書 pp.244-245

英国外交の狙いは、第一に大陸での勢力均衡の達成、第二に制海権の確立、第三に英国市場の拡大である。この三つの目標はユトレヒト講和ですべて達成されたが、他の強国はそれぞれの王室の威信と拡大に夢中になっていたから、それに気付くことさえなかった。

物語イタリアの歴史―解体から統一まで (中公新書)

藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書 p.70

ドメニコ会の規約はフランチェスコ会と同じく「完全な清貧」を基礎とするものであった。ただドメニコはフランチェスコのように精神的・知的な豊かさをも軽蔑したわけではなく、フランチェスコのように神学に無知でもなかった。彼は学問や理論の重要性を認めており、彼自身は学者ではなかったが、後にドメニコ会からトマス・アクイナス始め学識深い修道士が続出する基礎を作った。だがこの時期には、フランチェスコもドメニコも同じ戦線に立っていたのである。教皇イノケンティウスの期待は見事に満たされた。これら「正統の聖者」たちがいる以上、異端諸派は己の同義的優位を誇ることはできず、その民衆的基盤はカトリック側に奪回された。

物語イタリアの歴史―解体から統一まで (中公新書)

藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書 p.57

内外の強烈な刺激と急速な変動によって西欧社会が根底から揺り動かされないはずはない。12世紀は西欧キリスト教世界の深刻な危機の世紀でもあった。新興都市ブルジョアジーの利害は至るところで封建的諸制約と衝突し、それらの制約の守護者であり受益者である貴族階級に対する闘争は急速に激化した。トスカーナ伯のような領主がカノッサのような山の城から都市を含む自領全体を睥睨し、その領民を保護すると同時に支配するという、従来の安定した統治のパターンは現実に合わなくなった。都市は自治を宣言し、それを強圧しようとすれば武力で逆襲するだけの力をすでに備えていた。危機を感じた領主階級が皇帝権を振りかざせば、都市は同盟して教皇権を後楯とする。こうして赤髭皇帝フリードリヒ1世対ロンバルディーア自治都市連盟の戦争が始まった。

物語イタリアの歴史―解体から統一まで (中公新書)

山辺規子『ノルマン騎士の地中海興亡史』白水Uブックス pp.87-88

 ノルマン人の勝利は、決定的だった。ノルマン人の不敗神話が話題になるようになった。チヴィターテの戦いは、彼らの南イタリアにおける優位を動かしがたいものとしたのである。また、この戦いは、ヨーロッパ史上有名な事件とつながった。世にいう東西教会の分裂である。レオ9世はビザンツの援軍が戦いに加わらなかったことを不満に思っていた。一方、ノルマン人が征服した旧ビザンツ領において、ローマ・カトリックの典礼がおこなわれるようになったことが、ビザンツ側の避難の的となった。教皇側とビザンツ側の交渉団は、お互いに敵意を丸出しにし、交渉は決裂した。これをもって「東西教会の分裂」という。実のところ、以前から東西教会は性格を異にしてきていた。また、この後も両者の間には何度も交渉がおこなわれるので、1054年の交渉決裂は象徴的なものにすぎなかったともいえる。ただ、ノルマン人にとっては、ますます事態は有利になった。ビザンツ領を征服することが、ローマ教会の典礼を広げる、つまり教皇の権威を増すことにつながるため、ローマ教会の支持を得ることになったためである。

ノルマン騎士の地中海興亡史 (白水uブックス)

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』講談社選書メチエ pp.58-59

だが、アナトリアにとってより重要なことは、世紀の前半に行われたモンゴルの一連の西征活動によって、中央アジア、イラン方面から多数のチュルクメンが新たに流入してきたことである。マラーズギルトの戦いを大きな契機とする11世紀末の侵入を第一波とするなら、モンゴルとともにやって来た13世紀半ばのこの移住は、間違いなく第二の波であった。それは、ルーム・セルジュク朝のもとでいったんでき上がった秩序の動揺を呼び起こした。
 ルーム・セルジュク朝では彼らチュルクメンを辺境地帯へ送り込み、秩序の維持を図ったが、やがて彼らは、それぞれに自己の勢力を確立しようとすることになる。
 1253年、第四代モンゴル皇帝モンケの命によって、弟のフレグが西方遠征に発ち、58年にはバグダードを征服してアッバース朝を滅ぼした。こうして「フレグ・ウルス」いわゆるイル・カン国が建てられると、アナトリアは、イランを支配するこの国の宗主権下に置かれることになった。これに対してアナトリアのチュルクメン諸勢力はたびたび抵抗を示していた。そして14世紀に入って間もなくルーム・セルジュク朝の王統が絶え、さらにモンゴル勢力が後退し始めると、アナトリアでは各地にチュルクメンの君侯国が自立、割拠して覇を競うことになった。
 そしてその中の一つが、オスマン(?~1326)によって率いられた集団なのであった。

オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』講談社選書メチエ pp.193-194

 だが1688年には、イギリス名誉革命の余波が東方へおよんでいた。ルイ14世の膨張政策にたちはだかるアウクスブルク同盟諸国がイギリスとともにフランスとの戦争に踏み切り(プファルツ戦争)、皇帝は、同盟の一員として多くの兵力を、この対仏戦争に振り向けなければならなくなったのである。同じ年ローマ教皇も没して、「神聖同盟」は勢いを失う。そして同じ頃、イスタンブルではキョプリュリュ家が大宰相に復帰していた。ファーズル・アフメット・パシャの弟(つまりカラ・ムスタファの義弟)であるファーズル・ムスタファ・パシャである。このムスタファ・パシャはテケイ・イムレもつ勝手トランシルヴァニアで反攻を試み、セルビアの大半を奪還するとともにベオグラードをも取り返したのだった。
 さらに1696年にはソビエスキが死んで、ポーランドはフランス、オーストリア、ロシアの各国が推す国王候補が、それぞれ傀儡として王位を争う状況に陥る。結局1697年、ザクセン選帝侯が皇帝ツァーリに支持され、カトリックに改宗した上でアウグスト2世として即位することになった(のちにスルタンから軍楽隊を贈られるのはこの王である)。こうしてポーランドは、独立の地位を実質的に失っていったのである。そしてこの年の9月、オスマン軍もハンガリー中部、(170年ほど前にスレイマン1世がハンガリー王ラヨシュ2世を撃破したモハッチにもほど近い)ゼンタにおいて、大敗北を喫することになった。この敗戦を機に、オスマン側にも和平交渉に応じようとする機運が生じる。ちょうどこの1697年、ライスワイク条約によって西方でのプファルツ戦争が集結し、このままではレオポルト1世が全軍を東方へ向ける可能性が出てきたからである。
 この長い戦争を終わらせるため、仲介に動いたのはイギリスだった。なぜならまず、イギリスにとって皇帝軍は、オスマン帝国にではなく、フランスに向けられるべき力だったからである。レオポルト1世の全軍を西方へ向けさせるためにも、イギリスには、まずオスマン帝国と「神聖同盟」との戦いを終わらせる必要があった。またオスマン帝国との戦争は、東地中海交易にとって大きな痛手だった。イギリス製毛織物をイスタンブルで消費させることが、戦争によって妨げられるからである。さらにルイ14世は「盟友」オスマン帝国に対し、レヴァント貿易からヴェネツィア商人を追放すること、そしてその地位をフランス人に与えることを働きかけていた。重商主義政策のもとでフランスと海上覇権を争うイギリスと、そしてこの時期イギリスと同君連合を形成していたオランダとが、こうして講和の仲介役をかって出た。
 交渉は1698年の10月に、セルビア北部の小邑カルロヴィッツで始められた。難航した会談は、それでも翌1699年1月26日に調印され、ようやく東方に平和が訪れた。この条約でハプスブルク家はオスマン帝国からハンガリーを譲り受け、さらにトランシルヴァニア、クロアティア、スロヴェニアの領有権をも獲得した。

オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』講談社選書メチエ pp.107-108

 11世紀の後半以降、ヨーロッパは農業生産力の増大と、それに支えられた人口増とを経験する。そしてそうした発展は、ヨーロッパに、イスラム世界に対する従来の劣等意識と恐怖心とを反発と敵愾心とに転化させる背景を準備した。こうして世紀の末にはイベリア半島でレコンキスタ運動が大きく進展し始め、さらに東方へ向かっては十字軍が組織されるにいたるのである。とくに相次ぐ十字軍の出撃と並行して、ジェノヴァ、ピサなどのイタリア諸都市が、聖戦意識に支えられて地中海の再キリスト教化を目指す活動を担うことになる。彼らはすでに世紀の前半に、サルディニアやコルシカを奪回する成果を上げていたが、十字軍の開始とともにその輸送業務を引き受けて、東方への進出を始めていったのである。やがてかれらはその活動を商業中心に切り替え、ヴェネツィアの強力なライヴァルとなってゆく。
 また12世紀には、ヨーロッパにおいて香辛料への需要が、熱狂的とも言える高まりを見せ始める。人口を増やした肉食の人々が、限られた塩漬け肉で冬を越すために――あるいは乾した魚をそのままで食べるために――胡椒、丁子などの防腐効果と消臭作用とは必須のものであったろう。こうした事情に後押しされ、イタリア諸都市は利幅の大きい商品を求めて、東方へ乗り出してゆくのであった。
 当初彼らは紅海からインド洋へ出るルートの掌握を目指したが、後にはイラクからペルシア湾へ、または黒海からタブリーズを経てホルムズへ出るルートを開拓、確保しようとした。そして13世紀、こうしたルートへ東方から新たな驚異が襲いかかる。

オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))

堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社現代新書 p.158

 ヨーロッパでは、5世紀以降のメロヴィング朝は小寒冷期であり、カロリング期(751年)以降温暖期に入り、13世紀まで温和な気候が続いたと言われている。14世紀には再び寒冷期に入り、短期的には温暖期(15世紀半ばから16世紀半ば)を含みつつ、18世紀まで寒冷期が続いた。ヨーロッパが11世紀から13世紀にかけて政治・経済・文化の面で本格的な発展をとげた背景には、まさしくそうした気候の変化があったと言えるだろう。気候の温暖化は、農業に適した降水量をもたらしたのである。

新書ヨーロッパ史 中世篇 (講談社現代新書)

中丸明『海の世界史』講談社現代新書 pp.11-12

 シュメールにはじまるバビロニアの文明は、カルデア人によって継がれた。
 カルデア人とは、純粋のユダヤ人をのぞくメソポタミア人をいう。シュメール化したセム族のアッカド人、アモル人も「カルデア人」に属することになるが、彼らがいかに星座と人間の関係を重視し、高度の天体理論を生んだかは、「暦」を意味するカレンダーの語源が、カルデア人Chaldeanに由来することをおもえばわかるだろう。

海の世界史 (講談社現代新書)

中丸明『海の世界史』講談社現代新書 p.92

 ペストの脅威による生活の変化はまた、ヨーロッパとアジアとの交易に大きな変化を引き起こした。端的にいうと香料、とくに胡椒の需要が増大し、西アジア方面からの輸入がふえたということである。
 が、胡椒の需要はふえても、その支払いにあてる商品は乏しく、結果として、金や銀、銅などをもって当てねばならなかった。ペスト禍が終息しても、ヨーロッパは経済不況に見舞われることになった。この金づまりは、人生をユーウツにさせ、はては厭世観、世紀末観を生み出すことになる。

海の世界史 (講談社現代新書)

中丸明『海の世界史』講談社現代新書 pp.221-222

 アントウェルペンはオランダ語読みで、英語ではアントワープ、現在のベルギーのアンヴェルスだが、当時はハプスブルク・スペイン領であった。カルロス1世=カール5世が生まれたガン(現在のヘント)を流れるスヘルデ河の河口にある港町である。
 16世紀にこの町が世界経済の中心地になったのは、ヨーロッパの南北の商業圏の接点であったからだけではない。当時、ヨーロッパの銀生産の中心地でもあったから、カルロスが皇帝冠を買収するについて多大な投資をした、金融家フッガー家の繁栄にあった南ドイツと、南ヨーロッパ、就中、イベリア半島との仲立ちの場であったからだ。
 この町の繁栄を支えていた三本柱は、毛織物産業とインドのスパイス、南ドイツの銀と銅であった。イギリスの毛織物はここで高級品に仕立てあげられ、各地に送られた。

海の世界史 (講談社現代新書)

永積昭『オランダ東インド会社』講談社学術文庫 pp.58-59

こんにちオランダと風車は切りはなせぬものとされているが、事実そのつながりは古く、かつ深い。ヨーロッパの各地で風車が使われるようになったのは12世紀以来のことで、地中海沿岸から次第に北に広まり、13世紀には南西風の常に強いオランダで使われるようになった。最初のうちは小麦の粉ひきや、時には油しぼりに使われていたが、14世紀になると沼地、とくに泥炭を掘ったあとの排水動力に使われ、さらに16世紀以後には風車のメカニズムの改良によって一層広範囲の動力として、米の脱穀、煙草の製造、羊毛の圧縮、大麻(帆綱の原料となる)をたたくこと、製材、タンニン、染料、セメントの製造など、あらゆる工業の動力として用いられた。これが貿易の急速な発達と共にもたらされる各種の原料や半製品を消化し、さらに新しい需要を生み出した。そればかりではない。風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは帆船と似たところがあり、風車の羽根に張る帆布、方向固定のための索具や滑車、動力伝達のための心棒や歯車はまた帆船のための不可欠の部品でもあったのである。したがってこの二つは互いに密接な関連を保ちながら発達したのであり、当時のオランダの科学技術の高い水準を示す指標となっていた。

オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)

永積昭『オランダ東インド会社』講談社学術文庫 pp.39-40

マラッカ占領後、ポルトガル人は港の関税という財源を確保するために、今までのマラッカが持っていた扇の要のような重要性を必死で守りぬこうとし、アジア諸国の商人をマラッカに寄港させようとして懸命の努力を続けるが、彼らは高い関税や貿易上の種々の拘束を嫌ってポルトガル占領後のマラッカを避けるようになる。かつての扇の要としての地位は次第に失われていくのである。そして、アジア商人達はマラッカ海峡という絶好の紅海条件をあえてさけてまで、これに代わる寄港地を求めて狂奔することになる。まずポルトガル人によってマラッカから追われた旧王室はジョホールに移って僅かに余命をつないでおり、この港もマラッカ海峡の入口を占める好位置にあったが、何分マラッカそのものに近すぎるために、アジア商人たちはそれ程ジョホールに寄港せず、むしろスンダ海峡から荒波のスマトラ西岸を廻ることによって全くマラッカ海峡を避けることが一般的となった。この場合に絶好の寄港地としてクローズアップされたのが、スマトラ西北端のアチェーである。附近の港市ペディールの支配を脱して今まさに勢力を伸しつつあったアチェーはアジア商人、とくにイスラム教徒達の停泊地として急速に発展する。さらにこれらの商人達はインド沿岸のカリカットやゴアなどのポルトガル人の根拠地を避けて、インドの南西方にあるマルディヴ諸島を経由し、やはりポルトガルの支配下にあるペルシア湾頭のホルムズを避けて、紅海に入ったのである。このような航路の変更は、ポルトガルの進出なしには考えられなかったであろう。

オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)

曽村保信『地政学入門』中公新書 pp.147-148

 カリフォルニアを手に入れた合衆国は、当然のこととして、その領土の両側の海を互いに結ぶ連絡ルートの開発に無関心ではいられなくなった。けれども海上の王者英国が、そう簡単にその支配の座をおりるはずもない。最初から候補にのぼったのは、メキシコ南部のテワンテペック地峡、ホンジュラス、ニカラグア、それにパナマの四ヵ所だった。このうち合衆国は、パナマにたいして最も強い関心をもち、1846年にニュー・グラナダ(パナマ分離前のコロンビアの旧名)と条約を結んで、その通過権にたいする保障を得た。

地政学入門―外交戦略の政治学 (中公新書 (721))

曽村保信『地政学入門』中公新書 p.144

 当時両米大陸における旧スペイン領の復活が、政治的にも経済的にも好ましくないという点では、英米両国の利害関係はまさに一致していた。なぜならば、独立後まだ間もないアメリカ合衆国としては、強力なフランスおよびスペインの勢力と国境を接するよりも、むしろ地域的に細分された多くの独立共和国と交渉をもつことのほうが、はるかにやり易かったからである。しかしながら、その反面、英国はまた米国の大きな商売敵でもあり、さらに米国人のあいだでは、つい最近まで戦争の相手だった英国にたいする警戒心が簡単に消え去るものではなかった。そこで、この米国の孤立主義の傾向を代弁した国務長官のジョン・クィンシー・アダムズは、共同行動に反対して、以後米国は西半球の利益の保護者になるという、一方的な宣言を出すことにした。これが、前記のモンロー声明の背後の動機である。

地政学入門―外交戦略の政治学 (中公新書 (721))

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 p.62

 砂糖をほとんど万能の薬品とする考え方は、アラビアから主に十字軍によってもたらされたと思われますが、多くの人々が慢性的に栄養不良の状態にあった時代ですから、カロリーの高い砂糖は、どんな場合にも、即効性のある薬品となりえたのかもしれません。アラビアでは、すでに11世紀の偉大な医学者アヴィセンナ(イブン・スィーナー)が「砂糖菓子こそは、万能薬である」と断言していましたが、この人物が著した医学書は、少なくとも17世紀までは、ヨーロッパの薬学の世界でも最高の権威とされたものでした。

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 pp.184-185

 奴隷制度が廃止されると、カリブ海のプランテーションは崩壊し、あれほど強力だった「西インド諸島派」も消滅してしまいました。砂糖の特恵関税(イギリス領植民地にとくに有利な関税)も、1840年代につぎつぎと引き下げられました。もとは原価の倍ほどの関税がかけられていたのが、1844年には30パーセントに引き下げられ、1852年には、イギリス領植民地の砂糖と外国産の砂糖の関税が同率とされました。「朝食を無税に」という、マンチェスター派のスローガンは、見事に達成されたのです。
 ほぼ同じころ、東インド会社による茶の独占貿易も廃止されました。
 穀物法の廃止や砂糖関税の引下げ、東インド会社の貿易独占の廃止などは、自由貿易の政策だということができますが、別の言い方をすると、世界システムを利用して「安価な朝食」を確保することを狙ったものだったということもできます。

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

白石隆『海の帝国』中公新書 pp.75-76

 もうひとつの転機はメキシコの独立だった。これによって16世紀以来のマニラにおけるスペイン人の最大の利権、マニラを中継地としてメキシコと中国を結ぶガレオン貿易が1820年までに終わりを告げた。またメキシコの独立にともない、メキシコからのフィリピン政府に対する補助金も停止した。それまでフィリピンはスペイン帝国の周辺にすぎなかった。しかし、ラテン・アメリカのスペイン帝国が過去のものとなれば、スペインとしてもフィリピンをなんとかもうかるところにするほかない。

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

白石隆『海の帝国』中公新書 pp.4-5

 この当時、ヨーロッパはナポレオン戦争のさなかにあり、オランダはフランスの支配下におかれていた。アフリカ南端、喜望岬からセイロン、ジャワをへて長崎の出島に拡がるオランダの海上帝国はこの時期、イギリスによって解体された。1795年、オランダがフランスの同盟国としてイギリスに宣戦した直後、イギリスは喜望岬、セイロン、マラッカを占領した。ついで1806年、ナポレオンがその弟、ルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、1808年オランダ人ジャコバン党員、ヘルマン・デーンデルスを東インド総督としてバタヴィア(ジャカルタ)に派遣したあとには、イギリスはジャワの海上封鎖を行い、1810年には、イギリス東インド会社理事会の訓令を受けてカルカッタの東インド総督ミントー卿はジャワ占領を決意した。

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

浅田實『東インド会社』講談社現代新書 p.212

 東インド会社の高級営業部員であったT・ラッフルズは、ナポレオンによってオランダ本土が占拠されていた1800年にオランダ領ジャワ島を占領した。しばらくはジャワ社会の改革のために努力したが、結局ナポレオン戦争後1814年の条約でジャワはオランダに返還された。そこでラッフルズは、1819年マライ半島突端にあったシンガポールの島を獲得し、ここに「商業の自由」の原則に立った自由港を建設した。インド洋と太平洋とをつなぐシンガポールはこれから急速に繁栄し、イギリスの中国進出の重要な足場にもなった。

東インド会社 巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)

浅田實『東インド会社』講談社現代新書 p.206

 18世紀末から19世紀初めにかけて、純然たる商業会社から植民事業請負業者への比重をしだいに高めていくなかで、東インド会社営業部員たちは資産をもって本国に帰るものが多くなっていた。すべてがネイボッブといわれるほどの大資産をなしたわけではない。もちろん下院議員になるものなど、そのなかでもごくごく少数にすぎなかった。それでも多くの社員たちは相当の富を得て帰国しようと決意してインドに出かけたのだから、帰国した人たちはそれなりに富裕となっていった。少なくとも数百人のインド帰りの金持ちが、1800年ころのイギリスにいたといわれている。
 そして何人かはロンドン周辺かイングランドの西部や南部に住んで所領を得、腐敗選挙区を買いとって下院議員となった。
 このような腐敗選挙区を利用して、東インド会社関係者などの商業資本家や地主貴族がたやすく議席を得、政治を動かしたことに対しては、19世紀に入って産業資本家が抬頭してくると共に激しい批判が加えられた。その結果なされたのが、選挙法改正の動きである。
 イギリス議会史上、第一次選挙法改正がなされたのは、1832年のことであった。東インド会社の貿易独占権が全面的に廃止され、商業資本家の会社としての存立基盤がくずされたのが1833年であったから、同じ頃に選挙法改正もなされたわけである。第一次選挙法改正は産業資本家の商業資本家に対する勝利を象徴する出来事だといわれているが、東インド会社の独占権廃止とにらみあわせて考えるとき、それはまさしく産業資本家の勝利を示すものといえる。

東インド会社 巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)

浅田實『東インド会社』講談社現代新書 p.194

 プラッシーの戦いから1857年の「セポイ」の反乱まではちょうど100年だが、この100年の間にイギリスはつぎつぎと各地方への征服戦争をくりひろげ、ついにはインド全土を支配することになる。そのような東インド会社のインド征服の尖兵として、「セポイ」は戦ったのである。

東インド会社 巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)

鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン』講談社学術文庫 pp.298-299

 大陸封鎖でイギリス、フランスともに一番困ったのは、酒と砂糖の輸入である。
ブドウを栽培するのに適さぬ風土のイギリスは、主にボルドーからのワイン輸入に頼っていたが、これが不可能になったので、ワインに代わる酒の開発を強いられる。大麦から作るウイスキーがそれである。大麦はもっぱらビール醸造に用いられていたが、この大陸封鎖をきっかけに、スコットランドなどで伝統的に行われていた麦芽汁を蒸留する方法が見直され、ウイスキーがワインの代わりにイギリスでも飲まれるようになった。これがスコッチであることはいうまでもあるまい。
これに対し、フランスでは、西インド諸島からの砂糖の輸入が止まったため、人々はいろいろと知恵をしぼって、サトウキビ以外の材料から砂糖を精製する方法を考えざるをえなくなる。ナポレオンは懸賞を出して新たな砂糖精製法を募ったが、それに応えるかたちで登場したのがテンサイ(砂糖ダイコン)から砂糖を作り出す方法である。これによって、フランスは砂糖不足をなんとか克服することができたが、しかし、ナポレオン戦争が終わると、テンサイ砂糖は、輸入が再開されたサトウキビ砂糖との競争に太刀打ちできなくなり、今度は、そのテンサイ砂糖の効率的利用法が模索される。ここから生まれたのが、テンサイを原料とするホワイト・リカーで、これに果実や花のエッセンスを封入したものが世紀末に流行するリキュールとなるのである。

いっぽう、大陸封鎖の期間中、西インド諸島では販売先を失った砂糖をどうするかという問題が起こっていた。サトウキビは放っておいても毎年繁るので生産調整するのが難しい。いっそ、サトウキビの絞り汁を蒸留して酒にするラム酒のほうに生産をシフトしたらどうか? 予想通り、ラム酒は、フランスからのワインの輸入が途絶えていたアメリカで大歓迎され、以後、砂糖と並ぶ西インド諸島の主要な産品となるのである。
こうして見てくると、ナポレオンの大陸封鎖は、グレートブリテンでも、フランスでも、また西インド諸島でも、蒸留酒誕生のきっかけとなり、今日のスピリッツ文化を生み出す背景となったということができるのである。

ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789―1815 (講談社学術文庫)

鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン』講談社学術文庫 pp.274-275

 ナポレオンはイギリス本土侵攻の決意を固め、軍費調達のために、アミアン条約でイギリスから返還された植民地ルイジアナをアメリカに売却したり、上陸用舟艇を大量に建造させたりして、ブローニュに11万の大軍を集結させたが、わずか40数キロの距離にもかかわらずドーヴァー海峡は、熱狂情念だけでは超えられなかった。圧倒的に優勢なイギリス艦隊が行く手に塞がっていたのである。海上に出たとたん、侵攻部隊は、ドーヴァーの藻くずと消える危険性さえあった。
地団駄踏んだナポレオンは、イギリスとその植民地からの商品を閉めだす大陸封鎖例を出し、イギリスを経済的に締め上げようとしたが、海外に販路を多くもつイギリスにはこの措置もたいした影響をおよぼさなかった。

ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789―1815 (講談社学術文庫)

安達正勝『物語フランス革命』中公新書 p.160

 国王の裁判後も、国民公会ではジロンド派とジャコバン派が革命の主導権をめぐって激しく対立し続けていた。国民公会は国会なのだから、本来は立法府だが、行政をゆだねられていた国王による王政が消滅したため、国民公会が行政府も兼ねるようになっていた。

物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)

安達正勝『物語フランス革命』中公新書 p.22

 革命期のフランスの人口動態について簡単に言及しておきたい。
 革命勃発時のフランスの人口は2600万であった。これはロシア(3000万?)やハプスブルク帝国の総人口(2700万)よりは少ないが、イギリス(1000万)やスペイン(1000万)やプロシア(600万)にくらべるとはるかに多い。革命のフランスは一国でほぼヨーロッパ全部を相手に戦争することになるが、この人口の多さがその支えになった。
 また、18世紀初頭のフランス人口は2000万だったから、90年の間に人口が三割も増えたことになる。しかも人口構成が若かった。1789年の時点で人口の36パーセントは20歳以下で、40歳以上は24パーセントにすぎなかった。つまり、人口の四分の三は40歳以下だったのである。人口の増大と人口構成の若さが社会的活力を産み、これも革命の原動力の一つになった。

物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)

遅塚忠躬『フランス革命』岩波ジュニア文庫 pp.91-93

 89年以後、はじめにあらわれたのは、PからQに向かう妥協的改革路線でした。それは、89年の大衆の蜂起によって深刻な危機感を抱いたブルジョワが、大衆と手を切るbの動きをとったからです。しかし、この路線は、大衆の強い不満をもたらし、長続きしません。とくに、保守的貴族がオーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んで反革命運動を強めると、それに対抗するには、やはり大衆の力を借りなければならないことがはっきりしてきます。そして、92年にオーストリアやプロイセンとの戦争が始まり、国境の危機が迫ると、92年8月10日の大衆蜂起によってこの路線は崩壊し、王政が倒れてフランスは共和国になります。
 そこで、ブルジョワは、大衆と手を結ぶcの動きをとり、ここで路線はPからRに向かう徹底的革命路線に転換します。しかし、この路線も長続きしません。なぜなら、大衆のdの運動は、資本主義反対運動と表裏一体になったもので、ブルジョワは大衆の反資本主義的な要求に譲歩できなくなるからです。そのため、共和国軍の奮戦によって国境の危機や反革命内乱がしずまると、ブルジョワは再び路線を転換します。その再転換点が、94年7月27日(テルミドール9日)のクーデタです。しかし、その再転換は、もとのQへの復帰ではありません。ひとたび徹底的革命路線をとって諸政策を実施したのちには、もとのQにもどることはできないのです。結局、フランス革命派、1799年11月9日(ブリュメール18日)に、ベクトルPQとベクトルPRとが最終的に合成された終点Sで終結し、その遺産をナポレオンにひきわたすのです(テルミドールとかブリュメールとかいうのは、93年に制定された共和暦での月の名前です)。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

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